歳時記

葬式費用について電話取材

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 昨日、日刊ゲンダイの記者から電話でコメントを求められた。
「テパートなどが相次いで葬式ビジネスに参入しているが、これは葬式費用が不明瞭で高過ぎるということが背景にあるからだと思う。ついては、ご意見をうかがいた」
 といった内容であった。
 電話コメントは考える時間がなく、すぐにしゃべらなくてはならない。
 私の脳裏に「費用対効果」という言葉が浮かんだ。 
 つまり、高額なお金を払って葬式をして、
「それが何になるの?」
 という思いがあるのではないか、ということである。
 これが結婚式なら、「新たな人生のお披露目」という意識があり、大枚をハタいてもやる価値はあると思うだろう。相応のお祝いも集まる。
 だが葬儀は「人生の終わり」である。
「大金を使って〝お披露目〟をしたって意味がない」
 という気持ちが芽生えても不思議はあるまい。
 こうした思い背景には、葬式の意味が理解できていないということがある。
 葬儀に対する考え方は宗派によって差異があり、死者の供養、儀礼とする考え方から、浄土真宗のように、近親者の死という悲しみを機縁として、仏の教えを学ぶ「聞法」の場であると位置づけるものまである。
 ここでは葬式の意味に立ち入らないが、いずれにせよ葬式は、「いま生きている人間」にとって、とても重要な意味を持つ。
 したがって葬式が不要とする考えは、「生きる意味」について考えることを放棄するもので、これはとても不幸なことだと思う。
 しかし、だからといって葬式に多額の費用がかかっていいということにはならない。
「葬式の意義」と、そのための「費用」とは別問題なのだ。
 もっと言えば、死者儀礼にせよ、葬式を機縁の場とするにせよ、それらはお金などかけないで、いくらでもできるということなのである。
 したがって、「葬式」と「葬式ビジネス」を分けて考える必要があると、私は考えるのである。
 いま、若者の仏教離れが深刻な問題として仏教界で論議されている。
 だが私は、「若者の仏教離れ」という言葉を聞くたびに、
(そうだろうか?)
 という思いをいだく。
 若者が離れていったのではない。
 僧侶が離れていったのだ。
 僧侶が本来あるべき姿から離れ、社会のなかに埋没しつつあるのだ。
 金閣寺住職の2億円の申告漏れで、1億円が追徴課税されたことが大きなニュースになった。
 住職は、揮毫料をお布施と考え、税務申告する必要がないと誤解したとのことだが、それはともかくとして、この申告漏れのニュースを世間はどう受け止めただろうか。
(儲かるんだな)
 という思いは否定できまい。
 そんな思いで仏法を聴いて、どれだけ人が「納得」するだろうか。
 親鸞は一カ寺も自分の寺を持たないで、布教に努めた。
 良寛は越後の山中に草庵を結んで、清貧に生きた。
 名利を求めない「生き方」ゆえに、人々は仏法に耳を傾けたのではないか。
 僧侶はどうあるべきか。
 どう生きるべきか。
 このことを真剣に考え、本来あるべき姿を追い求めたならば、仏教はもっともっと見直されるだろうと、自省を込めて考えるのである。

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