子供のころ、母親から「地獄」の話をよく聞い。
なかでも、
「ウソをついたら地獄に堕(お)ちて、エンマ大王に舌をペンチで引き抜かれる」
という話を、50年がたったいまも鮮明に覚えている。
たぶん、そのころ私は〝親に内緒〟という小さなウソをついていたのだろう。
(ウソをつくとヤバイ)
という思いが、リアリティーをもって迫ってきたのである。
「だから立派な人間に育った」
というわけではなく、曲折を経て現在に至り、まもなく還暦を迎えるのだが、私の倫理・道徳観は、子供のころに聞かされた「地獄」によって植え付けられたように思う。
つまり、善縁善果・悪縁悪果という考え方で、
「悪いことをしたら地獄に堕ちる」
という思いを疑いなく子供心に抱いたのである。
ひるがえって、いまの若いお母さん方を見ていると、子供の躾(しつけ)に対して、あまりに「理屈と説明」が多すぎるように思う。
「ウソをついちゃいけないのよ。どうしてかというとね、ウソをつく人間は恥ずかしいことなの」
倫理・道徳を持ちだして説き、最後にこう訊くのだ。
「わかった?」
そして子供は、
「うん」
と返事して一件落着。
お母さんは、きちんと躾けたつもりで自己満足にひたるというわけである。
空手の指導をしていて痛感するのだが、子供の躾はまず、理屈抜きで善悪と社会規範を叩き込むことだ。
そして、長ずるにおよんで、少しずつ「なぜ、そうなのか」という説明を折に触れてしていくことで、子供の倫理・道徳観は育っていくように私は思うのである。
江戸時代、会津藩では、上級藩士の子弟は10歳になると藩校の日新館に入学した。
かの白虎隊の学び舎としても知られるが、ここの教育方針は、
「ならぬ事はならぬ」
というものだった。
一例をあげれば、
《年長者の言うことに背いてはなりませぬ》
《虚言を言うことはなりませぬ》
《卑怯な振舞をしてはなりませぬ》
などといった掟(おきて)が定められていて、文末は、
《ならぬことはならぬものです》
と結ばれている。
たぶん、当時の子供たちも躾けに対して、
「どうして?」
と問いかけたのだろう。
それに対して日新館は、
「ならぬ事はならぬ」
と毅然たる態度をもって接したのである。
躾とは、乱暴な言い方をすれば、社会規範や倫理、道徳といった「鋳型(いがた」)にはめることなのである。
我が子だから、どう躾けようと親の勝手だが、
「自由に、のびのびと育てる」
という親御さんに限って、実は躾を放棄しているように、私は思うのである。
昨夜、寝ながら仏教本の地獄絵を見て、ふと子供ころに母親が語った言葉を思い出しつつ、そんなことを考えたのである。
躾(しつけ)と「地獄の話」
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