「自分以外の人間は信用できない」
これが中国人の考え方だという。
春秋戦国時代の昔から中国は戦乱に明け暮れ、支配者はコロコロと変わる。
民衆にしてみれば国家は頼りにならず、自分の生活は自分で守るしかないわけで、「利己主義」になるのは当然だろう。
かつて、取材で上海に行ったとき、見地の人が中国人の「利己主義」について、こんなたとえ話をしてくれた。
子供が川で溺れていて、その子の母親が泣き叫びながら、通行人に助けを求めたとする。
すると通行人は冷ややかに、こう言うのだ。
「なぜ私が危険をおかしてまで、あなたの子供を助けなくてはならないのですか?」
こうした人生観をもつ中国人だから、
「騙すほうが悪いんじゃない、騙されるほうが悪い」
という考え方になる。
日本人は逆で、子供でも「騙すほうが悪い」と答える。
これは倫理・道徳観を含め、「騙すのは悪いことだ」という社会的コンセンサスがあるから成り立つわけで、「社会があって、個人がある」とする考え方だ。
一方、「自分以外の人間は信用できない」という中国人は、
「自分があって、社会がある」
という考え方である。
「国家は頼りにならない」
という歴史観からすれば当然だろう。
そういえば北京オリンピックのときに、中国人はバスに乗るときに整列せず、我先に乗り込むことが話題になった。
「自分があって、社会がある」という中国人の考え方からすれば、他人を押しのけて自分が先に乗ろうとするのは、これも当然だろう。
そんな社会がいいのだろうか。
「滅私奉公」は論外としても、「社会があって個人がある」と私は考えたい。
そして、「社会」と「個人」とをジョイントするのが「家族」という集合体である。
「家族」という単位をバラせば、社会は個人の集合体となり、そのいきつく先は「個人があって社会がある」という利己主義的な人生観になるだろう。
夫婦別姓に、私が危惧するゆえんである。
夫婦別姓を危惧する
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