人間は「本質」を見ようとしない。
たとえば、先日のこと。
取材でヤクザ親分に会ったフリーライターが、
「すげぇベンツに乗って、指輪なんか石ころみたいなダイヤなんですよ」
と感嘆していた。
ヤクザの「本質」や社会的存在を考えるよりも、関心はクルマや服装にいくのである。
あるいは成人式。
例によって沖縄の〝荒れる成人式〟をニュースで流していたが、成人式を報道する「本質」は、いまの二十歳が社会人として一人前であるかどうかであって、バカ騒ぎするかどうかではないのだ。
ところがメディアは「本質」を見ないで報道し、視聴者の私たちも〝荒れる成人式〟をおもしろがって見ているというわけである。
だが、逆説的に言えば、他人は「本質」を見てくれないということでもある。
あなたの人格がいかに素晴らしくとも、汚れたボロ服を着ていれば、
(この人、なに?)
と眉をしかめるだろうし、汗臭ければ、
(不潔!)
たちまち嫌悪感を抱くだろう。
「人格」という〝人間評価の本質〟とは無関係に、その人を判断してしまうのである。
以上のことから、自分としては「相手や物事の本質」を見抜くように努力し、相手に対しては「自分の本質以外で勝負する」というのが、〝かしこい処世術〟とされる。
悲しいかな、これが現実なのである。
私たちは「本質」を見ようとしない
投稿日: