待望の作務衣が届いた。
4月、京都に行った折り、馴染みの岩田呉服店に寄って、ご主人の岩田信一さんのアドバイスをいただいて仕立てたものだ。袖は着物袖に、陣羽織のデザインは……。
「おい、どうだ」
試着し、得意満面で女房に言うと、
「素敵だけど、作務衣ばっかり次から次へと……。あんた、小欲知足じゃないの? 口先ばっかりね」
嫌味を言う。
「バカ者!」
私が諭す。
「いかに自分が欲にまみれた凡夫であるか、こうして自己確認をしているのだ。仏法を学ぶということは、自分の愚かさを知ることであり……」
「私をごまかそうたって、そうはいかないわよ。そういうのを〝自分のことは棚に上げる〟って言うのよ」
私の手の内はお見通しで、すこぶるやりにくいのである。
だが、このとき、ふと考えた。
弱者救済のためのセーフティーネットという言葉があるが、我ら凡夫にはむしろ《セーフティー〝網棚〟》こそ不可欠なものではないのか?
《セーフティー〝網棚〟》とは、電車の網棚のようなもので、「自分のことを棚に上げる〝網棚〟」である。
医学に素人の私の独断だが、ウツ病など精神的な変調は、この《セーフティー〝網棚〟》がしっかりしていないことに一因があるのではないだろうか。
「あんた、小欲知足じゃないの? 口先ばっかり」
女房にこう言われて、
(ああ、女房の言うとおり、わしは言行不一致。何て愚かな人間なんだ。バカ、バカ、バカ……)
自己批判すれば、陰々滅々。やがて精神に変調をきたすだろう。
たとえ自分に非があろうとも、
「バカ者!」
一喝し、自分のことを棚に上げ、自己の正当性を主張するからこそ、大手を振って生きていけるのである。
ウソをつけと言うのではない。
我を通せと言うのでもない。
時に応じて、自分のことを棚に上げる〝図太さ〟もまた、生きていくうえで必要なことだと、私は思うのである。
自分のことを棚に上げて、自己正当性を主張すれば、ちょっぴり心に痛みを覚える。
それでいいのだ。
最悪なのは、「自分のことを棚に上げている」という自覚のないことなのである。
「正当性の主張」と「心の痛み」――この狭間で揺れることを「生きる」と言うのではないだろうか。
「このことに気づいただけでも、作務衣を新調してよかったではないか」
かくのこどく、私は女房に正当性を主張するのである。
ついでながら、作務衣に興味のある人は、以下、岩田呉服店のホームページをのぞいてみてください。作務衣もいいものです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/iwatasin/
人生の大事は《セーフティー〝網棚〟》
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