日日是耕日

俗にありて、煩悩を耕す365日

歳時記

怒りの本質は「敵は本能寺」

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 昨日、稽古態度の悪い子供たちを怒鳴りつけた。
 稽古が終わって、ふと考えた。
(俺はなぜ怒ったんだ?)
「稽古態度が悪い」というのは確かに《原因》ではあるが、
(果たしてそれは怒りの《真因》なのだろうか?)
 そんな疑念が浮かんできたのである。
 そして、子供たちを怒った真因を探っていくと、仕事が捗(はかど)っていないことに行き当たった。イライラが、子供の稽古態度の悪さを〝引き金〟として怒りに転嫁したのである。
 どうやら〝怒り〟というやつは、《原因》と《真因》があり、両者は直接関係しないということのようだ。
「福田首相は何だ! 人ごとみたいなこと言いやがって!」
 怒りの《原因》は、福田首相の木で鼻をくくった態度にあるが、《真因》は物価高騰など、暮らしにくくなってきたイライラであると言えるだろう。
「何よ、たまには家事を手伝ったらどうなの!」
「仕事をやる気があるのか!」
〝敵は本能寺〟で、怒りの《真因》が別にある以上、あわてて家事を手伝うのは無意味。
「何よ、その掃除の仕方は! あなたのそういう無神経さが嫌なのよ!」
《真因》が解消されない限り、怒りは次から次へと続いていくことになる。
 上司の怒りも同様で、叱責の《原因》を改めても、上司の怒りは収まらないのである。
 では、なぜ人間は《真因》でなく、《原因》を怒りの引き金にするのだろうか。
 たぶんそれは、《真因》は見えにくいからだ。
 もっと言えば、
「自分の思いどおりにならない」
「願望が満たされない」
「理想と現実とのズレ」
 といった不満が《真因》になっている場合が多いからである。
 だから、見えにくい。
 いや、見ようとしない。
 そして、そうした不満が、怒りの〝正当性〟にならないことを本人が誰より承知している。怒るには正当性――すなわち〝錦の御旗〟を必要とするからである。
 だから、正当性になりそうな《原因》に仮託して怒るのだ。
「ちょっと、オナラするのをやめてよ!」
 女房に怒られ、オナラするのをやめたとしても、女房の機嫌は直らないのだ。
「やる気があるのか!」
 必死でやる気を見せても、上司の機嫌は直るまい。
 これが怒りの実相であろう。
 怒りに限らず、人生というやつは、常に〝敵は本能寺〟なのだ。

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