歳時記

鍬(くわ)を振るって、悟りの境地?

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 無心になって畑を耕す――というのはウソである。
 少なくとも、私はそうだ。
 畑を始めて一年半。
「無心になって大地に鍬(くわ)を振るう」
 という心境にあこがれ、期待をして鍬を振るうのだが、一向に無心にならないのである。
 無心どころか、時代小説のストーリーを考えたり、空手のことを考えたり、仏教のことを考えたり……と、いろいろなことが頭をよぎり、普段よりも深く考え込んでしまうのである。
 で、今朝も畑へ行った。
 いつもは五時半に家を出るのだが、昨夜、ふと出発時間に疑問を抱いた。
(何で五時半なんだ?)
 夏場は陽射しを避けるために、早朝に行くのであって、早朝自体に意味はないではないか。
 オヤジも女房も私も、ヒマ人3人が、何を好きこのんで薄暗い早朝に、しかも肌寒い思いをしてまで行かねばならんのか。クルマで20分。そういえばヘッドをつけていたっけ。
 そこに思い至らず、先日は量販店で〝耳覆い〟がついた帽子を買ったばかり。「五時半」という固定観念ゆえのミスであった。
 かくして「五時半」に何の意味もないことを判然と悟り、今朝は7時半に出かけた。
 で、無心の話。
 今朝も鍬を振りながら、今日――毎週水曜日が〆切になっている『漫画ゴラク』の連載エッセイ(「男の兵法」)の内容を考えていた。
 無心になんか、なれないのである。
 で、私はさらに悟った。
 鍬を振るって無心になるとは、鍬を振りつつ、「考え」や「思い」に意識が深く集中するという意味ではないのか……。
(そうだ、そうに違いない!)
 かくして、畑と格闘すること一年半を経て、その「真理」に目覚めたのである。
 仏陀(ブッダ)とは、インドのサンスクリット語で「目覚めた人」「悟った者」の意味だ。鍬を振るうことによって、「無心」の意味することを悟った私は、ひょっとして仏陀になったのではあるまいか?
 僧籍としては、末席の末席の場外だが、末席の場外にいて、私はついに仏陀になった――なんてことが、あるわけないか。
 

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