この猛暑のなか、近所に住む3歳の孫をつれて、プールへ行ってきた。
いつものことだが、孫と約束をしてから後悔する。
仕事が詰まってくるからだ。
(なにか、うまい理由でキャンセルできないかな)
と、そんな思いがよぎるが、私の娘だけに、さすがにそこは見抜いていて、今回も約束の日が近づいてくると、私に電話を掛けてきて、孫と代わり、
「プール、プール……」
と、孫に連呼させるのである。
そこまで言われれば、私も退けない。
「うん。行こうね」
と、やさしく返事して、今日のプールになった次第。
お盆とは言え、レジャーランドのようなプールは混んでいて、テントを張ったり、パラソルを立てたり、子連れ、若者グループなど、賑やかなものだった。
そんな中に、両肩に刺青(イレズミ)をした若いヤクザがいた。
水着で、上半身は裸。
刺青を誇示しているように見えて、私はちょっと鼻白んだ。
「刺青はね、人さまに見せびらかすもんじゃねぇ。一生をヤクザで生きる証(あかし)として、心に彫るもんだ」
と、長老から聞いていたからだ。
実際、こんなことがあった。
ずいぶん昔、私が週刊誌記者時代のことだ。
夏場、九州から旧知のヤクザが上京してきた。
着替のシャツは東京で買うつもりで持ってこなかったと言うので、私が気をきかせてプレゼントしたところ、
「白は透けるとですよ……」
やんわりと断られた。
上着を脱げば、刺青がシャツから透けて見える、と言うわけである。いま思えば、まさに「刺青は人さまに見せるものではない」という昔気質のヤクザだった。
刺青を誇示したい気持ちはわかる。
人が避けて通ることに、快感もあるだろう。
だが、ヤクザの矜持とは、その〝快感〟を我慢するストイックさにあるのではないか。そんなことをプールで思った次第である。
で、今夜。
午後10時から『NHKスペシャル』を見た。A級戦犯のドキュメンタリーだ。テレビはニュース以外、ほとんど観ないが、この番組に、拓殖大学の先輩で、俳優の外山高士氏が東條英機の役で出演されていることを、ご本人からお聞きしていたからだ。
さすが第一級の演技は素晴らしく、A級戦犯について考えさせられたが、それはさておき、番組の中で、東條英機が軍服の胸前一面に勲章をつけ、演説する実写フィルムを観たときだ。ふと昼間プールで見た刺青の若いヤクザを思い出したのである。
(刺青を誇示する若いヤクザと、東條英機の勲章は、精神性において同じではないか)
そんな思いがよぎったのである。
刺青が「心に彫るもの」であるなら、勲章もまた、武勲として自分の心に着けるものではないのか。
いや、それは建て前で、人間というのは、それが刺青であれ、勲章であれ、出身校であれ、勤務する会社であれ、収入の多寡であれ、「誇示」あるいは「自慢」することによって、存在意義を無意識に確認しているのではないか。
いろいろ考えているうちに、ふとマラソンランナーの有森祐子さんの言葉を思い出した。「自分を誉めてやりたい」――バルセロナ五輪で、銀メダルを輝いたときの言葉である。
他人に対して、誇示も自慢もせず、「自分が自分を誉めてやる」ということの意味が、いまようやくわかったような気がしたのだ。
数年前、私が連載していた週刊誌の人物イタンビューで、有森裕子さんを取材したことがある。そのときは「自分を誉めてやりたい」という彼女の言葉を〝流行語〟のレベルでしか考えていなかった。人間を見る目の、なんと浅薄なことであったか。
いま思えば、深い意味を持つ言葉であったことを、不明を恥じつつ、再認識している次第である。
「ヤクザの刺青」と「東條英機の勲章」
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