「なんてバカ奴」――と嘲笑するような事件が、相次いで二つ起こった。
NHK富山放送局長(54)の万引きと、警視庁交通執行課巡査部長(47)の飲酒運転である。
放送局長はホームセンターでボールペンや髭剃りなど5千円相当の万引き。巡査部長は都内で同僚たちと飲酒後、電車で自宅のある千葉県大網市まで帰り、そこから自家用車を運転して帰宅途中、千葉県警の検問に引っかかった。
放送局長は辞職し、これまで築き上げた信用と社会的地位を失った。事件が万引きだけに、これからの晩年は暗く、孤独で寂しいものになるだろう。
「魔が差した」
と局長は語っているが、当人にすれば、まさに魔が差したとしか言いようのない事件だったろう。
一方、巡査部長は懲戒免職となり、職も退職金も一瞬にして失った。家族は経済的にもイバラの道だろう。飲酒運転取締強化のさなかで、しかも交通執行課の現職警官が飲酒運転をし、検問に引っかかったのだ。巡査長はそうは言っていないが、内心では、「魔が差した」としか説明ができないだろう。
「バカな奴」と嘲笑するのはたやすい。
「どうして、あんなバカなことをしたのか」
と誰しも思う。
だが、ここで私たちが考えるべきは、子供でもわかるような「あんバカなこと」をなぜ彼らはやったのか、ということである。
気のゆるみ、と言えばそうかもしれない。
タカをくくっていた、と言えばそうかもしれない。
だが、私が言いたいのは、誰にだって「魔が差すときがある」――ということなのだ。もっと言えば、私たちは正義漢ではなく、「たまたま魔が差さないでいるだけ」ということでもあるのだ。
実は、このことを教えるのが、親鸞である。
かいつまんで書くと、次のようになる。
ある日のこと。
親鸞が弟子の唯円に向かって、
「私の言うことを信じるか」
と問うた。
「信じます」
唯円が答えると、
「ならば人を千人殺しなさい」
と親鸞が言った。
驚いた唯円が、
「そんなことはできません」
と答えると、
「いま、何でも言うことを聞くと言ったではないか」
と親鸞が責めてから、こう諭したのである。
「おまえが人を殺せないのは、自分の心が善であるから殺さないのではなく、殺すという縁にめぐり会っていないからに過ぎない。逆に、殺したくなくても、殺さなければならない縁に出合えば、殺さねばならなくなる」
これが、唯円が書いたとされる『歎異抄』13章に出てくる親鸞の宿業論である。
考えみるがいい。人を殺そうと思って生まれてくる人間はいないし、殺人者になるなど夢にも思うまい。たかだか5千円の万引きで、あるいは飲酒運転で人生を棒に振るなど、誰が思うだろう。
言い換えれば、「どうして、あんなバカなことをしたのか」と嘲笑する私たちは、親鸞の教えに従えば、私たちが善人なのでなく、たまたまそうせざるを得ない縁に出合わないでいるだけと、いうことになる。
それほど人生というのは、危ういものなのだ。私たちはそうと気づかないだけで、幸せと不幸の間を仕切る塀の上をヨチヨチ歩きしているだけなのだ。
このことに気づけば、日々をもっと大切に生きることができる。
「私だけは大丈夫」
と、根拠のない自信と驕慢を戒めることができる。
もっと言えば、このような「生き方」を説いていくのが、真宗僧侶の末席につらなる一人として、私の責務ではないか、と思った次第。
古来より、「明日は我が身」と教えた先人の知恵は、実は、「魔が差す」の正体を指しているように私は思えてならないのである。
「魔が差す」の正体を考える
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