歳時記

畑を耕して気づいた「子育て」と「親」

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 今朝は5時起きで畑へ行った。
 まだ少量だが、キューリやコマツナ、ホウレンソウなど収穫がある。心配したカボチャも可愛い花をつけ、元気一杯である。サトイモ、ナス、ラッキョ、アシタバ、ネギ、ピーマン、落花生……等々、みんなスクスク育っている。野菜は正直で、手を掛けたぶんだけ成長してくれる。
 都内から千葉に引っ越してきた20年前は釣りに凝った。
 もっぱら堤防や護岸からの投げ釣りで、浦安から富浦、館山、勝浦、銚子、波崎まで釣り歩いた。
 釣りの楽しさは、魚との勝負にある。エサに工夫し、ポイントを探り、魚と虚々実々の駆け引きをする。いわば「対立の関係」である。
 だから釣り上げたときの快感は「してやったり」――。文字どおり「釣り上げた」快感なのである。
 ところが、畑は違う。
 野菜と勝負するわけではない。
 勝負どころか、野菜は逃げも隠れもせず、ただそこにじっとしている。踏みつけられても、引っこ抜かれても、なすがままにされ、黙したまま枯れていく。「対立の関係」にはないのだ。
 だから、野菜が育つかどうか――すなわち収穫できるかどうかは、すべて「私の問題」になる。豊作だからと言って、魚を釣り上げたときのような「してやったり」の快感はなく、あるのはただ、「育てた」という一方的な自己満足である。ここが、魚釣りとの違いなのである。
 児童虐待に関する相談が、3万件を超え、過去最高になったと、先日のニュースが伝えていた。
 この痛ましい現実に、私は釣りに見る「対立の関係」を、ふと思った。虐待する親にしてみれば、我が子は「魚」なのだ。子育ては〝釣り〟であり、釣りは魚との「対立」の中で成立する。
 だから腹も立つ。
 結果、暴力へとエスカレートしていく。
 健全な親御さんにとっては、我が子は「野菜」ではないか。
 野菜――すなわち、我が子が立派に育つかどうかは、畑を耕す「親の問題」としてとらえる。「対立の関係」という認識はなく、だから親は一方的な愛情を我が子にそそぐのだ。
 我が子は、ひと山いくらのキューリかもしれない。ジャガイモかもしれない。ひょっとして、高級アスパラかもしれない。しかし、どんな野菜であれ、耕す人が丹込めなければ収穫にはいたらない。育たないのは野菜が悪いのではない。耕す人間が悪いのだ。
 今朝――畑の草をむしりながら、そんなことを考えた。

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