歳時記

「人間、物見遊山」という生き方

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 貧しくとも人生謳歌――これが江戸庶民の生き方である。
 執筆のため、いま江戸時代について調べているのだが、当時、庶民が住む長屋は、入口と台所を含めてわずか三坪(六畳)。隣とは板一枚で仕切られただけで、井戸、トイレ共同という暮らしだった。
 それでも庶民は、日々の生活を楽しみ、明るく、逞しく日々を生きていた。
 その理由――すなわち江戸庶民の〝人生観〟について、故杉浦日向子氏がこんなことを書いている。
《江戸の人々は「人間一生、物見遊山(ものみゆさん)」と思っています。生まれてきたのは、この世をあちこち寄り道しながら見物するためだと考えているのです。「せいぜいあちこち見て、見聞を広めて友だちを増やし、死んでいけばいい」と考えています。
 ものに価値をおくのではなく、江戸の人々は、生きている時間を買います。芝居を見に行く、相撲を応援しに行く、旅に行く――と、後にものとして残らないことにお金を使うのが粋でした。江戸の町では火事が日常事だったので、「どれだけものに執着しても一晩の火事で灰になってしまう。そんなのはつまらない」ということになるのです。》(『お江戸でござる』/ワニブックス刊)
 私たち現代人は、家一軒を手に入れるために日々の生活を切り詰め、一生を費やすのとは対極の生き方が、そこにある。モノや財産は、火事で灰にならなくとも、死んでしまえばそれっきり。あの世にまで持っていくことはできないことを思えば、ブランド品だ何だと、モノを手に入れることに汲々とする人生は、愚かなことかもしれない。
 いや、モノに限るまい。
 進学もしかり、出世もしかり。
 一流校へ入ったから、それがどうしたというのか。出世したからといって、それがどうしたと言うのか。物見遊山で日々を楽しみなが生きている人間と、進学だ、出世だ、財産だと、歯を食いしばって生きている人間と、どっちが幸せだろうか。
 努力をするなと言っているのではない。
 努力は大切だ。
 ただ、何のために努力をするのかという視点が間違っていれば、結果として不幸になると言っているのである。
 たとえて言えば、東京から北海道へ行くつもりで必死で自転車を漕ぎながら、それが九州へ行く道であったなら、努力してペダルを漕げば漕ぐほど、皮肉にも、ますます北海道から遠ざかることになる。
 人生も同じなのである。
 もし、自分が執着し、それが欲しい、そうありたいと悶々としている事があれば、いま一度、考え直してみるといい。「自分は、それを手に入れてどうしようというのか」「それが人生にとって、どういう意味を持つのか」「それで幸せになるのか」――案外、つまらぬことに心がとらわれていることに気がつくだろう。

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