先日、友人と新しくオープンした焼き肉店に行ったときのことだ。
たらふく食べて、少し皿に残したまま勘定をお願いすると、
「食べ切れませんでしたか? いいお肉ですから、持って帰ってください」
と、中年のおカミさんがパックに詰めてくれた。
(親切な人だな)
と思うと同時に、ふと、
(だけど、オレがもし、面倒だから持って帰りたくないと思っていたとしたら、これは〝親切〟なのだろうか?)
そんな思いがよぎった。
おカミさんは「よかれ」と思って肉を詰めてくれた。
親切心は痛いほどわかる。
だが、それは、おカミさんの価値観による親切であり、一般通念としての親切であって、私にとって親切であるかどうかは別問題ではないか――そんな思いがよぎったというわけである。
というのも、昨年暮、こんなことがあったからだ。
某編集プロダクション社長が、
「A君が欲しいんだけど、仲介してくれないか」
と私に言ってきた。
A君は二十代半ばのフリーライターで、私の仕事を何度か手伝ってくれたことがあるのだが、取材能力はイマイチ。性格も引っ込み思案で、私としてはあまり薦めたくなかった。
そこで私は、
「A君より、B君のほうがいいと思うよ。何なら、私からB君に話してもいいけど」
と、能力に勝るB君を薦めたが、
「いや、A君がいいんだ」
と、編プロ社長はこだわった。
結果として、この話はうまくいかなかったのだが、先日、この編プロ社長と食事をしたときに、なぜA君にこだわったのか、聞きそびれていたことを思い出して尋ねた。
理由は意外なものだった。
「B君のほうがいいに決まっている。それはわかってる。だけど僕は、デキの悪いA君を育てられるかどうか、自分を試してみたかったんだ」
編プロ社長は、そんなことを言ったのだった。
B君を薦めるのが親切であるという私の思いは――それが客観的に見て親切であるとされても――編プロ社長にとっては、余計なお世話であり、結果として親切にはならなかったのである。
「よかれ」と思うことが、相手にとって本当にいいことなのかどうか、私たちはあまりに無神経かもしれない。「親切」の本質は、実は自分の価値観の押しつけではないだろうか。
自分の価値観でなく、相手の価値観で考える――これが本当の意味で親切のように思うが、どうだろう。
「親切」の本質を考える
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