いまから30年ほど前、週刊誌記者時代のこと。
人間の「外見」と「中身」と、どっちが大事かということについて、友人と飲みながら議論したことがある。
私は「外見だ」と主張し、友人は「中身だ」と譲らなかった。
私が言わんとしたのは、
「中身はもちろん大切。しかし人間は外見で判断される。したがって、外見もまた大事なのだ」
ということだが、それでも友人は、
「中身がしっかりしていれば、それはおのずと外見に現れる」
と言い張ったものだ。
のち、私は作家に転じて、
「お金は、あるように見えれば、それはあるのと同じ」
といった〝実戦心理術〟を書くのだが、仏法を学ぶうちに、
(人間、やはり中身ではないか)
と、最近になって気持ちが揺らいできた。
「お金は、あるように見えようと、見えまいと、どっちでもええがな」
という心境である。
ところが、
『信は荘厳から起こる』
という言葉を見つけて、思わず唸(うな)った。
荘厳(しょうごん)とは、仏語で仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ることを言うが、『信は荘厳から起こる』とは、
「寺堂の立派な装飾を見て信心が啓発される」
という意味で、
「内容は形式によって導かれる」
というたとえである。
どの宗派も一定レベルの寺院になると、
(おっ、すげぇな)
と、その威容と煌(きら)びやかさに感嘆するが、
『信は荘厳から起こる』
という言葉を念頭におけば、納得である。
仏教ですら、「荘厳」という外見で「信」を起こさせるのだ。
人間にとって「外見が大事」という私の主張は正しかったと、いま再認識しているところである。
人間は「外見」が大事
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