良くも悪くも、私たちは世間体を気にして生きている。
「みっともない」
という〝恥の文化〟は日本の美徳としても、世間体に縛られて生きていくのは、しんどいものだ。
仏法の基本に、
《自灯明じとうみょう) 法灯明(ほうとうみょう)》
という教えがあり、次のようなエピソードで語られる。
八十歳という高齢になったお釈迦さんが、伝道教化の旅の途中で体調を崩し、弟子の阿難(あなん)にみずからの入滅が近いことを告げる。
阿難は嘆き悲しみ、そして問いかけた。
「お釈迦さまが亡くなられたあと、私は誰の教えによって悟りへの道に入ることができるのでしょうか」
すると、お釈迦さんは、こう言った。
「自分自身を拠(よ)り所とし、他の者を頼ってはいけない、法(普遍的法則)を拠り所とし、他のものをたよってはいけない」
悟りとは、人から教わって知るものではなく、「自分自身」と「法」を頼りにしながら、みずから至るものである--と病床で説いたのである。
「法」とは仏法のことであり、「自分自身」とは、仏法に照らされた自分のことを言うが、私は《自灯明 法灯明》を「世間体」という文脈でとらえた。
すなわち、
「世間体という不確かで実体のないものに振りまわされ、《自分》というものを持たない人生は浮き草に等しい」
というものだ。
ひらたく言えば、
「世間の目なんかクソくらえ」
という生き方である。
だから、私は作務衣に陣羽織を着て外出する。
着物に袴をつけて近所を歩き、ファミレスに行く。
ハンチングをかぶり、時にステッキもつく。
サングラスをかけることもある。
「ちょっと、ヘンな人に見られるじゃないの」
眉をひそめる愚妻に、私はさとすのだ。
「自灯明、法灯明--。これは、釈迦が亡くなるときに残した言葉でな。その意味するところは・・・」
「どうでもいいけど、お釈迦さんが、そんな格好をしろって言ったの?」
今日2月15日は、お釈迦さんが入滅された日である。
釈迦の教えと「世間体」
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