いまから136年前の1875(明治8)年2月13日、明治政府によって「平民苗字必称義務令」が布告された。
「すべての国民は苗字(姓)を名乗れ」
と義務づけたのだ。
したがって今日、2月13日を「苗字制定記念日」という。
周知のように江戸時代まで、苗字を使えるのは貴族と武士、そして庄屋や名主など一部の有力庶民に限られていたが、明治維新によって「平民」も苗字を持つことが認められた。
これは命令ではなく、
「名乗ってもよい」
ということなので、
「苗字なんざ、いらねぇや」
と、平民はあえて名乗ろうとはしなかった。
というのも、国民は明治新政府を信用しておらず、
(これは税金を課すなど、何か魂胆があるに違ぇねぇ)
と疑ったのである。
それで、業を煮やした明治政府が「義務」として命じたため、国民はアワを食って適当な苗字をつけたという次第。
さしずめ、私の「向谷」という苗字は、たぶん向かい側に谷でもあったのだろう。
そんなことを思いながら苗字を考えると、楽しくなってくる。
いま「夫婦別姓」が論議されている。
賛成派は、
「男女不平等感」
「アイデンティティの喪失」
「仕事上におけるキャリアの断絶」
といったことを主張する。
一方の反対派は、
「家族の絆(きずな)の薄弱化」
「一人っ子同士の結婚の場合、家名が途絶えてしまう」
「子どもに悪い影響を与える」
と、こちらも譲らない。
だが、私が不思議に思うのは、「姓」というレッテルより以前に、
「家族」「子育て」
という大問題があるにもかかわらず、大きな論議になっていないということだ。
つまり、育児放棄や虐待などの社会問題が、「夫婦別姓」ほど熱気を帯びて論議されないのはどうしてなのか、という思いである。
「夫婦別姓」の論議に、思想的な背景があると考えるのは私だけだろうか。
動物には「姓」も「名」もない。
そんなレッテルと無縁の世界に生き、命がけで子供を育てている。
「それは種の保存本能だ」
と、したり顔で言ってはなるまい。
私たち人間は「種の保存本能」さえ、失おうとしているのだ。
今日が「苗字制定記念日」と知って、そんなことを考えるのである。
「名字制定記念日」に夫婦別姓を考える
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