道場のほか週2回、近くにある中学校の剣道場で空手の稽古をしている。
道場の稽古は、段級位や年代に分けて稽古しているので、年齢や技量を超えて一緒に稽古する機会をつくるためである。
だが、道場と違って、学校の広い剣道場は寒い。
で、昨夜の稽古は、子供たちの要望で走ろうということになり、中学生の黒帯たちにまかせ、リレーなどゲーム的な走りを始めた。
すると、どうだ。
走ること、走ること。
普段の稽古はチンタタラやっている子どもも、大マジメに、そして必死に走るのである。
それを見ていて、
「人間、努力するようではダメだ」
という言葉を思い浮かべた。
すでに故人になられたが、気学の大家の平山喜堂先生が、私におっしゃった言葉だ。
「人間、好きなことなら寝食を忘れて没頭する。そこには努力という意識はない。だから、努力するようでは、まだまだダメなんだね」
努力は尊いが、努力を必要とするようでは、本物ではないということだ。
嬉々として走る子供たちを見ていて、そんなことを思った。
彼らにとって空手の稽古は努力。
努力という意識を超えさせるにはどうすればいいか。
同様に仕事も人生も、いかに「脱努力」であるべきか。
昨夜は、あれこれ考えさせられたのであった。
努力するようではダメだ
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