このところ、毎朝5時起きで畑へ出かけている。
ピーマン、サニーレタス、コマツナ、ナス、スイカ、サツマイモ、ホウレンソウ、キューリ……。もっと植えたような気がするが失念。というのも、畑の指南役は、八十三歳になる私の親父で、指南役主導で耕し、苗を植え、種を蒔いたので、何を植えたのか、私はよくわかっていないのである。
それでも、コマツナとサニーレタス、キューリが収穫できるようになり、畑に行くのがとても楽しみになった。早い話が、成果があってこその努力。僧侶としての生き方から言えば、無償の努力であるべきだろうに、悟り(?)はまだまだ雲の彼方といった気分である。
僧侶と言えば、今朝、雑草を引き抜きながら、得度習礼のことを思い出した。得度習礼は、京都・本願寺西山別院で行われたが、11日間の研修のなかで2回ほど境内の掃除があった。私は草むしりをやったのだが、このとき年配の〝仲間〟が、
「雑草も花と同様、生命を宿す植物なのに、引き抜かれて可哀想ですね」
と私に言った。
なるほど、と思った。雑草に罪はなく、人間の都合で引き抜くのである。私は、心底、雑草が可哀想になったものである。
だが、このときは、得度習礼中ということで、気分は〝仏教〟。だから、雑草にさえ心を動かされたのだろう。娑婆へ帰って畑を耕せば、雑草の何と憎らしいことか。
「雑草に罪はない」
と思った殊勝な心はどこへやら。
「冗談じゃねぇよ」
刈った後から生えてくる雑草に悪態をついているのである。
結局、価値観なんてのは、どんなにエラそうなことを言ってみたところで、所詮、「自分の都合」と同義語ということか。農作業で〝体得〟した「納得」である。「悟る」のは難事だが、「納得」するのは実に簡単なのだ。
と、ここまで書いたところで、つけっぱなしにしていたテレビで村上氏(村上ファンド)の記者会見ニュースが放送され始めた。
何だかんだとリキを入れて語っているが、要するに村上氏の発言をひとことで言えば、
「私は犯罪認識(インサイダー取引)は毛頭なかったが、結果として犯罪になるというなら、罪を認めざるをえない」――ということになろうか。
要するに、罪を認めつつ、「私は悪くない」と言っているのである。
だが、このことは、別の例に置き換えれば、もっと本質がハッキリする。
たとえば、痴漢。
「私は痴漢する気は毛頭なかったが、結果として手が女性のお尻に触れていたとしたら、罪を認めざるをえない」
村上氏の論理と同じである。
すなわち、論理もまた価値観同様、「自分の都合」によって、いかようにもなるということなのだ。
「私は、世のため人のために尽くそうと思って日々を生きていますが、結果として、世間に迷惑をかけているとしたら、非を認めざるをえません」
「私はやさしい人間なんです。でも、結果として……」
「私はウソなどついたことはありません。でも、結果として……」
謝りつつ、「私は悪くない」と主張する。〝言い訳テクニック〟の基本である。
農作業で体得した「価値観」の正体
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