歳時記

「後悔」と「逃避」

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 いつか役に立つだろう。
 こう思って資料を保存しておく。
 暮れの大掃除をするときに、そんな資料がごっそり出てきて、
(取っておいたって結局、不要になるんだよな)
 ブツブツ言いながら、思い切りよく捨てる。
 ところが、捨てた資料に限って、
(あっ、しまった!)
 あとで必要になってきて、あせりまくる。
 こんな繰り返しなので、資料は保存しておくべきか捨てるべきか、いつも頭を悩ますというわけである。
 で、今朝。
 起き抜けに、溜まった資料のことが頭をよぎった。
 今年もあと二ヶ月。
(資料をどうするか)
  という思いが潜在的にあったのだろう。
 悩んでいるうちに、ふと気がついた。
 この情報社会で、私が必要とする資料など、いくらでもあるのだ。
 絶版本だって、アマゾンにある。
 つまり、
(あの資料、捨てるんじゃなかった。あの資料があれば)
 という後悔は、仕事に対して〝逃避的〟な気分になっているのではないか、ということに思い当たったのである。
(あの資料さえあれば、すぐにまとまるのになァ。捨てるんじゃなかった。いや、捨ててないかもしれないぞ)
 そんな思いでゴソゴソ資料を探し、
(やっぱり捨てたか)
 とガッカリする。
 そんなヒマがあれば、さっさと別の資料を当たればいいようなものだが、腰が上がらず、捨てた資料にこだわっている。
 その本質は、仕事に対する〝逃避気分〟ではないかと気がついた次第。
 すなわち〝資料〟は一例で、
「過去において後悔するのは、現在における逃避である」
 と、私は考えたというわけである。

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