歳時記

思いは駆けめぐる

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パリ五輪の柔道の試合をテレビで観戦していた愚妻が、
「どっちが強いのか、よくわからないわねぇ」
と言う。

深い考えはないのだろうが、たまにはいいことを言うではないか。

武道は本来「強さ」を競うものだが、それがスポーツ化することによって「ルールを競う」ものに変容するため、どっちが強いかわからなくなるのだ。

たとえていえば、法廷闘争と同じ。
人倫に悖(もと)ろうとも、本当は真犯人であろうとも、「法律に触れていない」と裁判官(審判)が判定すれば無罪(勝ち)になるのだ。

「それって、おかしいじゃないか!」
非難すれば、
「ならば、有罪であると証明すればよい」
ということになる。

こういう現実を前に、
「法律に触れさえしなければ何をやっても許されるのか!」
と憤慨するのは当たらない。

逆なのだ。
法律に触れさえしなければ何をやってもいいというのが「世の中のルール」なのである。
これを称して「悪法も法なり」と言う。

かつて会社の乗っ取りは、悪徳人間として非難されたものだが、いまはM&Aというハイカラな言葉で、まっとうなビジネスになっている。

根拠は「合法」であるから。

いいとは思わないが、それが今の世のなかの価値観であり風潮なのである。

一時期、「論破」という言葉がもてはやされたが、これとて、
「屁理屈も理屈のうち」
という「屁理屈」であって、「悪法も法なり」という考え方に通底するものなのである。

この価値観でいけば、
「ビンボー神も神様のうち」
ということになる。

つまり「何でもあり」ということ。

結構な世のなかになってきたように見えて、「何でもあり」は結局、善悪・正邪という「普遍的な価値観」が霧散することでもある。

価値観の多様化は生きるに易しそうでいて、じつは自分と社会の首を絞めることになるのではないか。

ダイバーシティーも結構だし、論破も結構、「悪法も法なり」も結構だが、道徳教育を置き忘れた日本はどうなっていくのだろうと、昭和人間の私は憂うのである。
パリ五輪の柔道を引き金に、思いは駆けめぐるのだ。

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