「東海道の赤い石」をご存じだろうか。
飛脚の話だ。
江戸時代、足のべらぼうに速いベテラン飛脚がいた。
どうすればそんなに早く走れるのか、新人飛脚が質問すると、
「道の所々に赤い石が落ちてるんだ。その赤い石を踏みながら走っていくと速く着くのさ」
と答えた。
「なるほど!」
というわけで、新人飛脚は、赤い石を探しながら東海道を一路、大坂へとひた走った。
ところが、いくら目をこらしても、赤い石は見あたらない。とうとう一個も見つけられないまま、大坂に着いてしまった。
「よし、帰りこそ!」
と、今度は江戸に向かって走りながら、赤い石を探したが、これも結局、見つけることはできなかった。
「赤い石なんか、ないじゃないですか」
新人が文句を言うと、
「それより、おめえ、何日で往復した?」
ベテラン飛脚に言われて、新人はハッとした。これまでより、はるかに少ない日数で、江戸―大坂間を往復していたのである。
――これが「東海道の赤い石」だ。何事も没頭することの大切さを教えた寓話だが、これを私はいつも「一日生涯」という言葉に重ねてしまう。
「一日」を「東海道の赤い石」とするなら、充実した人生とは密度が濃く、そして〝短い〟ということになる。長寿時代になって久しいが、「人生の密度」を念頭に置かずして、いたずらに長寿を願うのは、東海道をトコトコと走る足の遅い飛脚のようなものだと私は思うのである。
今日という一日に全力投球し、完全燃焼して生きるということは、昨日と変わらぬ「今日」であり、今日と変わらぬ「明日」ということになる。
けれど、人生のある時期を迎えて来し方をふり返ったとき、人生の登山口は、はるか眼下にあり、思いもつかぬ曲折の山道を登って来たことにア然とさせられる。東海道の〝赤い石〟を探して走っていたら、いつのまにか江戸についていたという気分である。
「人生を短く感じるのは損ではないか」
と反論する人は、この世に生まれてきたことの意味を解さない人だ。
仏教は、この世に生を受けることを「苦」と教える。欲という名の煩悩に苦しみながら、一生を終えるのだ。くわしい話はまたの機会に譲るが、人生、ただ長ければいいというものではないことに、そろそろ気がつくべきではないだろうか。
「東海道の赤い石」は、実はそのことを私たちに教えているかもしれないと思うのである。
「一日生涯」の生き方と「長寿」
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