菅総理が総裁選不出馬である。
下村政調会長を脅して出馬を断念させたくらいだから、やる気マンマンであったことは周知のとおり。
断念の本質は「出馬できない」であるが、メディアで報じる場合は「出馬しない」となる。
「しない」と「できない」とでは天地の差があるが、本人が「できない」と言わない限り、現象的には「しない」である。
表現と本質のズレである。
言葉の難しさであり、おもしろさだ。
その昔、私が週刊誌記者時代、劇画作家の故梶原一騎先生と親しくしていたときのこと。
梶原先生が、世間とメディアに大バッシングされ、これに反論することになり、私が記事を書くことになった。
当時、梶原先生はメディアの取材を受けていなかったので、単独インタビューは私にとってもありがたいことだった。
で、先生が体調を崩して入院していた東京女子医大の病室で取材をした。
このとき梶原先生はベッドの上で開口一番、こう念を押した。
「いいか、向谷君。タイトルに『悪役の大逆襲』という文言を入れてくれ。『悪党』じゃないぞ、『悪役』だぞ」
この言葉をいまだに覚えている。
バッシングされている自分が今、世間からは「悪」に見られていることを認識したうえで、それを否定することなく、あえて『悪役』と表現してみせるのだ。
否定すれば、さらに炎上する。
『悪党』では、本当の「ワル」になってしまう。
『悪役』という言葉でいなし、大いに反論する。
この心理術と言語感覚に、さすが希代の劇画作家だと感心したものだ。
ひかきかえ、ガースー総理はどうか。
言葉というのは一国をおも動かすということを、あらためて思った次第。