東京ディズニーランド(TDL)に新エリアがオープンするという。
TDLの近くに公営の墓地公園があり、お勤めに行くことは何度もあるが、TDLに行くことはない。
私がTDLに行ったのは一度きり。
長女が中学を卒業したときに家族で行った。
とすると、約30年ほど前か。
早いものである。
千葉に住んでいて、なぜこの30年、私はTDLに行かなかったのだろ。
愚妻にそう言うと、
「行くわけないでしょ。あなたは毎晩、好き勝手に遊びまわっていたんだから」
シラっとした顔で言って、
「うちは母子家庭のようなものなんだから、子供のことどろじゃないわよね」
私には遊び回っていたという記憶も自覚もないのだが、愚妻は二言目にはそう言って責める。
察するところ、晩年に来て、私を貶(おとし)めることで、主導権を完璧なものにしようとしているのだろう。
「そろそろ定年にしようかと思っておる」
退職のおうかがいを立てると、
「死ぬまで仕事しなさいよ。好きで書いてるんでしょ?」
「そりゃ、まあ、好きでやってはいる」
「じゃ、遊んでいるのと一緒じゃないの。死ぬまで遊べて幸せよね」
嫌味なことを言うのだ。
長女一家は近所に住んでいるので、お彼岸に一緒に墓参りに行った。
長女がお墓の掃除をしながら、
「お母さん、人生に悔いはないでしょ?」
そう問うと、
「なに言ってるの。まだまだこれからよ」
大マジメに言ったので、長女は苦笑していた。
愚妻の言葉に「老老介護」の四文字が私の脳裡をよぎる。
「長生きも結構だが、わしに迷惑をかけるのではないぞ」
クギを刺すと、
「これまでさんざん迷惑をかけられてきたんだから、たっぷりかけるわよ」
これも大マジメに言うのである。
ふと思い立って、いま深沢七郎の『楢山節考』を読み返している。
老人を山奥に遺棄する風習の物語だが、「長寿」が祝福されるのは一定の年齢まてであって、老いも過ぎれば迷惑な存在であることがよくわかる。
子が生まれたときは「おめでとう」と親が祝福され、親がうんと高齢になって亡くなるときは、今度は親の世話をした子供が「おめでとう」と祝福される。
「おめでとう」の言葉でこの世に生を受け、「おめでとう」の言葉で命を終えていく。
これを難儀と受け取るか、「めでたい人生」と受け取るか。
この違いを人生観と言うのだろう。
せっかくだから、新しくなったTDLに行ってみるか。
愚妻にそう告げると、
「どうぞ。私のことは気にしないで」
行くならひとりで行けと言うのだ。
人生、やはり難儀のようである。