我が空手道場の審査会は春秋2回。
秋は、この9月23日に行う。
それで審査会に向けて稽古をしているのだが、熱心に稽古するのは大人と、黒帯が射程に入ってきた子供の茶帯クラスで、あとの子供たちは緊張感が今ひとつ足りない。
毎度のことなので、ならば審査基準をうんと厳しくし、技量未熟者は全員不合格にしようかとも思う一方で、
(それは指導者として敗北ではないか)
という思いがある。
なぜなら、ひとつには「指導努力を放棄する〝恐怖政治〟ではないか」という思い。
もうひとつは、「稽古に緊張感が足りないのは指導者の責任ではないか」という思いの2つである。
そして、あれこれ考えた末、子供の「やる気」は、〝やる木〟という木の苗を植え、水をやり、育てていくしかないのだと、改めて思った。
スクスクと伸びていく木もあれば、遅々として伸びない木もある。
杉のように真っ直ぐ伸びていく木もあれば、松のような木もある。
松に向かって、
「真っ直ぐ伸びろ!」
とイラつくのは、イラつくほうが間違っている。
松には松の素晴らしさがあり、その素晴らしさを見抜き、活かすのが指導者の責務だろう。
「指導」とはまさに忍耐であり、忍耐こそ〝やる木〟の木を育てることだと考える。
となれば、私に必要なのは「根気」、いや〝根木〟という木をいかに育てるか、ということになる。
子供に教えられることは多い。
「やる気」は「やる木」
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