稽古も法務もなく、しかも外出自粛とあって、時間はたっぷりある。
コロナのおかげと言っては不謹慎だが、これ幸いと、経典をテーマに執筆するため、毎日、資料と格闘している。
だが、時間があるというのは考えもので、いつのまにか〝資料の海〟で溺れかけている。
仏教というのは本当に奥が深く、空手や古武道と同じだと、今朝、ウォーキングしながらつくづく思うのだ。
空手や古武道を指導するときいつも考えるのは、
「技量のレベルに応じて、どこまでその技の意味するところを教えるか」
ということだ。
突いて、蹴って、受けて、という動作そのものは単純でも、その奧はとてつもなく深く、
「このことがわかるためには、このことを知らなければならず、このことを理解するためには、このことがわからなければならない」
というように技術は不可分になっているのだが、初心者に説いても理解できない。
さりとて、表面的なことだけ指導したのでは、ちょっと囓っただけでわかったような気になってしまう。
仏教も同じで、私は浅学なりにある程度わかっているつもりでいたが、〝資料の海〟と格闘してみて唸るばかりである。
たとえば、
「仏教を学べば、何がどうなるんですか?」
という単純な問いに対して、
「生きるのが楽になりますよ」
と、答えたとする。
すると、
「どうしてですか?」
というさらなる問いが発せられ、これを説明するには、
「このことがわかるためには、このことを知らなければならず、このことを理解するためには、このことがわからなければならない」
という複雑な展開になっていくのだ。
この展開を、読み物としていかに面白く単純化してみせるか。
その試験的モデルが拙著『親鸞がヤクザ事務所に乗り込んで「悪人正機」を説いたら 』だが、この手法をさらに進化させるにはどう書き方があるのか。
構想はすでにできている。
だが、作品化するのは楽ではない。
楽ではないが、チャレンジあるのみと、ウォーキングしながら考える。
まさか70歳を目前にして自分のケツを叩くことになろうとは、思いもしないことである。