「自分は、そんなに悪い人間じゃない」
誰もが思っている。
盗人にも三分の理があるのだから、フツーの人がそう思うのは当然である。
だが、世間というやつは、本人が思っている以上に、厳しい目で見ているものなのだ。
我が身を振り返ってみればわかる。
三人寄れば、必ず誰かの悪口ではないか。
悪口が楽しいということもあるだろう。
だが悪口の本質は、それを共有することによって仲間意識を再確認し、自分が悪口の対象になることを無意識に避けようとしているところにある。
言い換えれば、世間や同僚というやつは、いつ手のひらを返すかもしれないということなのである。
ことに会社の同僚は、構造的に敵対関係にある。
全員が「長」になれるわけではない以上、それを目指すには競争しなければならない。競争相手は「敵」なのである。
だから同僚が好成績を上げれば、面白くない。
ドジを踏めば、心は弾む。
イヤなことだが、それが人間なのだ。
そこで、敵意が存在する人間関係において、どういう心構えで生きていけばいいのか。
お釈迦様は、
《敵意ある人々の中にあって、私は敵意を抱くことなく、幸せに生きていこう》
と、さらりとおっしゃっているが、問題は、
「いかにすれば敵意を抱くことなく生きていけるのか」
ということである。
たとえば昇進で、同僚に先を越されたとしよう。
おもしろくない。
当然だろう。
どうするか。
ヤケ酒を呷ったのでは、ますます惨(みじ)めになる。
さりとて、お釈迦様のように、動揺することなく、
(敵意を抱くことなく、幸せに生きていこう)
と達観するのも、凡夫には無理だ。
私なら、
(とりあえず先を越された)
と自分に言い聞かせる。
野球で言えば、1点先取されただけのことで、取られたら取り返せばいい。
先取した人間が、そのまま勝者になるほど、人生は平穏ではないのだ。
そう思えば――嫉妬がまったくなくなるとは言わないが――気持ちに余裕が出てくる。余裕を持って人生ゲームが続けられるなら、逆転の可能性は十分あるのだ。
人生に遅れを取ったときの心構え
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