今日の午後、横浜で、僧侶でもある友人と食事。
友人と言っても私より若く、働き盛り。
行政書士の女性もご一緒。
ある企画について、忌憚のない意見交換である。
私は特技と呼べるものは持ち合わせていないが、時として「ヒョータンから駒」を出して見せることがあるので、
「あなたは人ができることはできない、人ができないことはできる」
というのが愚妻の見立て。
つまりは、ヒネクレ者のアマノジャクだと事あるごとに言うのだが、ま、その傾向は確かにある。
明後日は、葬儀のお手伝いで、都内の寺に出かける。
明日は忙しくて時間がないため、先ほど準備をした。
袈裟や衣体(えたい)、念珠、中啓、白衣など、あれやこれやとカバンに詰めなければならないが、こういうことは私は大の苦手。
だから、箇条書きにしたものを私が読み上げ、愚妻が箪笥から取り出してカバンに詰めていく。
だが、行きはきちんとカバンに納まっているが、帰りは着替えたものを私が詰めるので、ぐちゃぐちゃになる。
だから、私は言うのだ。
「おまえは、帰りのことまで考えないで荷造りをする。そこが愚かなところだ」
「じゃ、自分でやりなさいよ!」
キッと睨んだので、
「冗談だ」
あわてて機嫌をとった次第。
だが、飛行機の離陸は、着陸が前提である。
学校だって、卒業を念頭に入学するし、「生」は「死」を前提にしている。
ならば荷造りだって、当然、帰りを念頭におくべきではないか。
そのことをやんわりと愚妻に諭したのだが、
「ちょっと、荷造りしているんだから、ごちゃごちゃ言ってないで向こうへ行ってなさいよ」
プンプンと怒っている。
どんな崇高な諭しも、愚妻の耳には届かない。
だから、生きるに強いのだろう。
私も見習わなくては。
生きるに強し
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