歳時記

たまには反省もするのだ

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『将東遊題壁』(将に東遊せんとして壁に題す)』という、よく知られた日本の漢詩がある。

男児志を立て郷関を出ず
学もし成る無くんばまた還らず
骨を埋むること何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

《青山》(せいざん)は「骨を埋めるにふさわしい場所」、《墳墓》(ふんぼ)は祖宗を祀ってい場所であることから、《墳墓の地》は「故郷の地」で、直訳すれば次のようになる。

「男が志を立て郷里を後にしたからには、学問を成就しない限り、決して郷里には帰らない。骨を埋めるのに、どうして郷里の墓に執着しようか。どこへ行こうと、骨を埋める墓所はあるのだ」

この詩が言わんとするのは、「志(こころざし)に殉(じゅん)ずる」という覚悟であり、「志が果たせるなら野垂れ死にしてもよい」という男子の本懐を歌いあげたものである。

この覚悟を詠んだ男はヤクザでもなく、武士でもなく、出征兵士でもない。
僧侶である。
吉田松陰や久坂玄瑞らとも親しかった長州藩の勤皇僧・月性(げっしょう)が、大阪に遊学するため、故郷を発つに際して決意を述べたものだ。

月性は、浄土真宗本願寺派光山妙円寺の10世住職である。
私も本願寺派の僧侶。
まさにその「志」と「覚悟」において、天と地の差がある。

いわんや私など僧侶の身でありながら、終活を考えてみたり。

「無明煩悩われらが身にみちみちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉(そね)み、妬(ねたむ)心多く暇(ひま)なくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、消えず、絶えず」

私たち死ぬまで煩悩と二人旅だと親鸞さんは言う。

そうだな、と思う一方、釋月性さんのような生き方もある。
我が身を引き合いにしながら、同じ坊主でも社会との関わりにおいて玉石混淆であることに思いを馳せ、たまには反省もするのだ。

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