歳時記

自己弁護に言い訳

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歯医者で過日、ちょこっと欠けた前歯を補修してもらった。
わずか3日で、補修部分がなくなっていた。

むろん、気をつけてはいた。
トーストを食べるときもガブリとやらないで、千切って食べていた。
煎餅も細心の注意を払っていた。
それでも気がついたら欠けていたのである。

愚妻には言えない。
このところ私は芋ケンピをポリポリ食べていて、
「ちょっと、歯が欠けるわよ」

注意喚起されていたからだ。

欠けたなどと言えば、それ見たことかと勝ち誇るにちがいない。
それが癪なので黙っているのである。

それにしても、前歯を使わないで食べるというのは何とも不自由なもので、「失って気づく」ということを再認識した。

だが、「所有している」から「失う」のである。
最初から書湯していなければ、失うことはない。

これが仏語に言う「無一物、無尽蔵」ということなのだろうと納得したが、
「待てよ」
と思い直した。

無一物であるなら、「所有=喪失=気づき」という啓発が成り立たなくなるではないか。

だが、さらに、
「待てよ」
という思いがよぎる。

「所有=喪失」となれば、そこで「気づき」を得たとしても、無くなっていくのだからそのベクトル(方向性)は「無一物」ではないか。

「所有=喪失=気づき=無一物=不所有=不喪失=不気づき」と展開していく。

ここまで考えて、ふと自分は疲れているのではないかという思いがもたげる。

用事は山積しているのだ。
非生産的なことを考えるヒマがあれば、とっとこ片付けるべきなのに、そうはしないのは疲れているからにちがいない。
どこまでも自己弁護に言い訳なのである。

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