葬儀で、「末期(まつご)の水」という儀式がある。
最期を迎える直前や直後、口元を水で湿らすことだ。
割り箸などの先にくるんだ脱脂綿に水を含ませ、故人の唇に浸す。
死出の旅路で、のどの渇きに苦しまないことを願って行われる儀式だが、浄土真宗ではこの儀式はない。
臨終即往生で、亡くなると同時に極楽浄土へ導かれるため、「死出の旅路」がないと考えられているからだ。
しかも『阿弥陀経』の説く極楽浄土には、「八功徳水」(はっくどくすい)という功徳が満ちあふれた清らかな水があるため、渇きは一切ないとされる。
それはそれとして、ごくたまに「末期の水」の代わりに、ビールや酒を用いるご遺族がいる。
愛飲家だった故人に飲ませてあげたいというやさしさだ。
今日のご葬儀がそうだった。
出棺前、ご高齢の故人に対して「末期のビール」が行われた。
教義はともかく、ご遺族のこの気持ちは貴く、微笑ましいものだ。
ところが見ているうちに、ふとビールが飲みたくなってきた。
酒をやめて20年になるというのに、そんな自分が不思議でならなかったが、あとで考えてみるに、その心は、ビールが飲みたいのではなく、
「晩酌にゆっくりとビールを飲む生活がしたい」
という願望が芽生えていることに気がついたのである。
加齢のせいか、毎日があわただしいせいか、あるいはその両方か。
12月で74歳になる。
75歳からが後期高齢者だそうだがら、残り少ないとはいえ、この歳が自分にとって人生の大きな転機の始まりになるような予感がしている。
どう転んでいくかわからないが、忙しくとも、晩年は晩酌を楽しめる境涯であるべきではないか。
「晩年」と「晩酌」をかけて、バンバンザイ(晩晩歳)というのはどうか。
そんな気がした今日のご葬儀であった。