パソコンは、モニター画面2枚を使用して作業にあたっている。
たとえば執筆するとき、1枚は資料を表示させ、それを参照しながらもう1枚のモニター画面に打ちこんでいく。
3枚あればもっと便利になるかと思うが、過ぎたるはなんとやら。
ややこしくなりそうなので、いまのところ2枚がちょうどよい。
ところが、このやり方に馴れてしまうと、持ち運ぶノートパソコンが不便で使いづらくなった。
今日は、近所のマクドナルドに行って仕事をしようと思ったが、ノードパソだと当然ながらモニターが1枚なので、すこぶる不便なのだ。
こういうことを称して「便利は不便」と言うのだろう。
便利に馴れるのは結局、自分の首を絞めるということか。
ならば、「不便が便利」かというと、そうではない。
「不便は不便」なのだ。
便利はダメで、不便はなおダメ。
法務が途切れたときに、遅れた仕事をしなければとあせりつつ、マックに行こうかどうか考えていて、こんなくだらないことが頭をよぎるのである。
用事は、海の波のごとく押し寄せる。
だが、波の一つひとつにどれほどの意味があるのか。
そう考えると、機械的に押し寄せる波の一つひとつを越えようとするのは愚かなことかもしれない。
波は越えるのではなく、身をまかせて漂うものではないのかと、いまあらためて思うのである。