鹿児島のお寺で女性住職をやっている友人から、先ほどメールが届いた。
その中に、
「よっこいしょ」
という掛け声について書いた私のブログに触れてある。
「どっこいしょ」
という掛け声は「六根清浄」からきているという。
そう言えば、そんな一文を呼んだ記憶がある。
あらためて調べて見ると、こう書いてある。
《昔のひとは山登りの時など「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)を口々に唱えた。
六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の働きのことで、身も心も無垢清浄になろうという祈りの言葉が「六根清浄」である。
それが「六根浄」となり、「どっこいしょ」となった》
そうなのだ。
「どっこいしょ」は、実に尊い言葉なのだ。
「おい、聞け!」
先ほど、居間でうたた寝している愚妻を起こして言ってやった。
「おまえは、わしの掛け声をバカにするが、『どっこいしょ』は六根清浄からきているのだ」
「六甲山がどうかしたの?」
「アホ、六根清浄だ」
そして、この言葉の意味について懇切に説明してやったところが、
「だけど」
「何だ」
「それって、『どっこいしょ』でしょう? あなたは『よっこいしょ』じゃないの。六根清浄じゃなくて、四根清浄にならない?」
イヤなことを言う女だ。
だが、六根が四根になると、2つ欠けることになる。
欠けた2つが不浄のままではないか。
これはまずい。
よし、「よっこいしょ」を「どっこいしょ」に変えよう。
何事もこだわりを捨てるのが私の持ち味なのだ。
だが、なぜか「よっこいしょ」になってしまう。
これは習慣づけなくてはだめだと反省し、「どっこいしょ」「どっこいしょ」と何度も口に出して練習していると、
「ちょっと、うるさいはねぇ」
うたた寝を起こされた愚妻が不機嫌な声で言う。
私がたしなめる。
「おまえは、六根のうち、《舌》が不浄なのだ」
「バカなこと言ってないで、さっさと二階に上がって仕事でもしなさいよ」
「その眼だ。それがいかん。おまえは《眼》も不浄ということになる」
「うるさい!」
入院を間近に控え、気が立っているだろう。
気を静めるには「どっこいしょ」「どっこいしょ」の掛け声ががいいと思うが、そんなことを言うと、烈火の如く怒るに違いない。
私はそそくさと自室に籠もり、いまこのブログを書いたところである。