歳時記

されど、人生

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通夜のとき、喪主が導師控室にご挨拶にみえる。

そそくさと席を立つ方もいらっしゃれば、話し込んでいかれる喪主もいらっしゃる。

話し込んでいかれる方との話題は人生論が多い。

なぜなら、故人について大雑把に事前に知らされてはいるが、根掘り葉掘り質問するのも失礼なので、「死」という漠然としたテーマで会話をしていくうちに、自然と人生論になっていくのである。

喪主が働き盛りの世代であれば、悲しみのなかにも「自分のこれからの人生」が関心事だ。

いずれ死ぬ身であろうとも、現実生活を前にして、いまはそんなこと考えてはいられないということだが、
「具体的に何をどうする」
ということまでは話題にならない。

まさに漠とした「生き方」の模索である。

五十代後半で勤め人の方は、定年を見据え、「生き方論」も具体的である。

「じつは、セカンドライフにこんなことを考えているんですがね」
自分に言い聞かせるような、あるいはこの坊主が何と言うかといった口調でおっしゃる。
定年というゴールに眼を奪われ、「死」は念頭になく、見つめているのは前途の「生」ばかりである。

七十代になると、「人生論」は現実生活から「死」を意識した話題になる。
「いずれは死ぬんでしょうがねぇ」
冗談めかして話していても、頭の片隅に死への不安が感じられる。

これがうんと高齢になって連れ合いを亡くした方は、悲しみの中にも、ある種の達観がある。

火葬場で別れるとき、
「さみしくなりますね」
喪主の未亡人に語りかけると、
「これが人生でしょう」
自分に言い聞かせるようにおっしゃった方がいた。

こうしてみると、長寿時代の七十代というのは実に不安定な年代であることが、実感としてわかる。

働き盛りのような「未来」はない。
「過去」を追憶するには早すぎる。
さりとて、うんと高齢の人のように「死」を自然の成り行きとして受け入れることもできない。

だからか、七十代の私と話し込んでしまい、
「ご、ご導師、お時間が」
式場の係があせり、早く着替えてくれとうながすのだ。

例年、気候の関係もあって、3月に入るとお葬式は少なくなっていくものだが、今年はそうではなく、火葬場の予約がとれないそうで、
「こんなこと、初めてです」
式場の係りが言っていた。

年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず

されど人生、である。

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