ご高齢の方の葬儀に出仕すると、「命をいかに終えるか」ということについて否応なく考えさせられる。
死は必然である以上、私たちは必ず死んでいくわけだが、寿命が長くなかった時代は「死」そのものを恐れた。
だから「願生浄土」の宗教心はよくわかる。
ところが、寿命がどんどん延びてくると、
「ボケるのではないか」
「寝たきりになったらどうしよう」
と、「死」そのものよりも、「死に至る過程」を恐れるようになった。
その結果、
「健康のまま死んでいけるのだろうか」
という矛盾した願望をいだくようになり、「健康餓鬼」に落ちていく。
愚妻は健康サプリとストレッチ、日帰り温泉に凝っている。
「餓鬼道」に落としてはなるまい。
だから愚妻にこのことを説くのだが、例によって馬耳東風ならぬ「愚耳東風」である。
「大丈夫、私は死ぬまで健康だから」
「その根拠は何だ」
「私が大丈夫と言えば大丈夫なのよ」
この確固たる自信はどこからくるのか。
ひょっとして愚妻は、仏法を学ばずして「さとり」の境地に達しているのかもしれない。
これからはバーチャルの時代だ。
世の中の一変に高齢者は戸惑い、ますます生きづらくなるだろう。
時代という大河に身を置こうとするから、激流に翻弄されるのだ。
こういう時代にこそ、
「我は我なり」
愚妻のように「私が大丈夫と言えば大丈夫」という、根拠なき自信が大事になってくるのではないか。
根拠はいらないのだ。
私たちは理屈や整合性にこだわりすぎる。
人生はアナログであってこそ、ハッピーになれるのではないか。
「健康のまま死んでいく」
という「矛盾の願望」を笑ってはいけない。
この矛盾にこそ、人生の実相があるのだ。