シャーキ族の王子だったお釈迦さんが「人生の真実」を求め、29歳で家を出るときのこと。
子供が生まれたばかりとあって、妻の耶輸陀羅(ヤソーダラ)が、
「名前すらまだ決まっていないのに」
と言って引き留めようとすると、お釈迦さんは、
「羅睺羅(ラーフラ)とでもつけておけ」
そう言い置いて出て行ったと、一説にある。
『羅睺羅』とは『悪魔』という意味だ。
可愛い我が子に、よくぞ名づけたり。
しかも、その子を捨てて修行に出て行く。
イクメンが当たり前の現代からすれば、お釈迦さんは「冷酷人間」ということになるが、これは、
「子供への愛情は執着(しゅうじゃく)であり、苦の元凶の一つである」
ということを逆説的に説いた伝承の一つということになるだろう。
つまり、可愛いから断ち切る、ということである。
執筆の必要があって、いま釈迦の「親子観」に関していろいろ資料を読んでいるが、2500年の昔から「親子」や「家庭」について論じられていることに、いまさらながら驚かされる。
心理学者として著名なアドラーは、
「すべての悩みは『対人関係の悩み』である」
としたが、法務でいろんな家族に接する体験から言えば、アドラーの言う対人関係とは「親子」「夫婦」「兄弟」といった身内ではないかと、お釈迦さんを調べていて思うのである。
近しい関係であればあるほど、愛情と、その裏返しである執着が強くなり、同時にその反作用も比例して強くなっていく。
お釈迦さんのマネはできないが、このことに気づけば、もっと違った接し方をもあるのではないか。
そこで、コロナで学んだ新生活スタイルを応用した「家族」「家庭内」のディスタンスである。
我が家はどうするか。
先程、そのことに自室で頭をめぐらせ、思いついたのが「愚妻の生前葬」である。
導師は、夫である私。
これぞ、一つ屋根で暮らしながら究極のディスタンスではないか。
さっそく階下に降り、テレビを観ている愚妻に提案すると、ジロリとニラんで、
「なに考えてるのよ」
意を尽くして説明したが、断固として拒否され、
「死んでもあなたにはお経をあげてもらわないから」
バチ当たりなことを言うのだ。
我が家においては、家庭内ディスタンスも難しそうだ。
お釈迦さんに習って、私が家を出て隠遁生活を送るしかなさそうだが、愚妻は決して引き留めはしまい。
お釈迦さんが求めた「人生の真実」とは、実はこのことかもしれない。
となれば、「私は寝転がったままで、さとりを開いたことになる」と勝手なことを考えて悦にいり、原稿は遅々として進まなくなるのだ。