ものごとにはタイミングというものがある。
治に居て乱を起こせば「反逆者」となり、乱に乗じて変革すれば「英雄」となる。
このタイミングを見極めることのできる者が「勝ち組」となる。
私が法務で出かけるときは、法衣の用意など支度は愚妻の役目である。
これまでずっとそうしてきた。
「あさって通夜だ。通夜は黒衣、葬儀はそうだな、ブルーの色衣に袴は紫のやつにするか。輪袈裟は新しく買ったやつだ。双輪念珠のヒモをチェックしておけ。それから持参する焼香が減っているかもしれないから、これもチェックだ」
こんな調子でポンポンと指示し、愚妻が用意する。
ところが先日。
「あさって通夜だ」
ポンと言って、指示を出そうとした刹那、
「支度、あながするんでしょ」
心理的エアポケットをつくようにして愚妻が言葉を挟み、
「うん」
思わず私は返事をしていた。
これがタイミングというやつである。
メンツにこだわる私は、「うん」と返事をしておいて、
「やっぱり、おまえが支度せよ」
とは言えない。
そして、一度でも私が支度したなら、
「やっぱり、おまえが支度せよ」
とは次回も言えなくなり、支度は私の役目になってしまった。
タイミングを狙うだけの才覚が愚妻にあるとは思えないから、これは天性の嗅覚ということになるだろう。
天下国家から市政の人間関係まで、すべからくタイミングの善し悪しで結果は天地の差が出てくるのだ。
そしてタイミングの要諦は、
「ゆっくり構えて、素早く攻める」
ということ。
これを「虎視眈々」と言うのだ。