快晴である。
ウォーキングしていて、汗ばむのが実に気持ちがいい。
自然を満喫しつつ、
(だけど、冬のウォーキングは寒くなるな)
という思いが脳裏をよぎる。
今を存分に楽しめばいいものを、未(いま)だ来たらざる冬のことを心配している自分に苦笑である。
未来を考えるのが人間の知恵とされる。
ライオンは腹が減ったら獲物を獲り、満腹になったら昼寝する。
獲物が獲れないときのために蓄えておくということをしない。
人間は違う。
「獲れないときもある」と未来を考えて蓄える。
食糧だけではない。
進学、就職、老後と生活すべてにわたって、未来を先取りして考える。
ポカポカ陽気のウォーキングに、厳冬をどう過ごすか考えるようなものではないか。
大事なのは「今」である。
「今」「今」「今」の集大成を人生と呼ぶのであって、「人生」という何かがあるのではない。
仏教は常に「今」を問う。
未来でも過去でもない。
「今」なのだ。
新型コロナがいつ終息するのか、予測が盛んに論議されている。
私もそれは気になる。
だが、大事なのは「いつ終息するか」という将来の予測に心を砕くことではなく、「今」をどう生きるかではないのか。
将来を予測し、そこから「今」をどう生きるかを決めたくなるのは人情としても、
「未来から現在を見る」
という生き方は、未来の予測が狂えば、すべてが狂ってしまう。
所詮、未来の展望とは、現在の不安を払拭しようとする代償行為に過ぎない。
「今」を充実して生きていれば、「今」を充実させようという思いで生きていれば、どういう未来が来ようとも、すべてウェルカムになるのではないか。
そんなことを考えながらのウォーキング。
ちっとも気が休まらないのである。