歳時記

首里城の焼失

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首里城が焼失である。
古武道の稽古に毎月、まる7年通った総本部道の文武館は、那覇から向かって終点の首里駅で降りる。

だから、首里城にもよく行った。
沖縄のシンボルであり、首里城を見ると「沖縄に来た」という感慨を持ったものだ。

首里城が焼失したこの日、葬儀のお勤めをした。
人は生まれ、亡くなっていく。
無常である。
首里城もしかりか。

原因を究明して後世に役立てることは大切である。
と同時に、現実の「無常」を受け入れることは、もっと大切なのではあるまいか。

昨日、ご遺族といろんな話しをし、それに首里城の焼失を重ね合わせ、「現実の受容」ということを考えるのである。

昨夜、食事に出かけていて、ふと思い立ち、
「来週は釣りに行くから、竿とリールを用意しておけ」

愚妻に命じると、
「房総半島は台風と大雨の災害でまだ大変なのよ。何が釣りですか!」
焼酎のロックを飲みながら、眉を吊り上げる。

それはそうだが、たぶん愚妻の本心は、釣りの用意をするのが面倒なのだろう。
用具から着るものから、私はどこに何が仕舞ってあるのかわからないのだ。

本音を隠し、大儀を持ち出して相手を責める。
ヤクザ諸氏の得意ワザだが、愚妻はいつこのテクニックを身につけたのか。
癪だが、大儀は「受容」するしかあるまい。
釣りはやめだ。

首里城焼失のニュース画像を見ながら、釣りだ何だと些末なことにこだわることに何の意味もないことに気がついた。
こだわりとは我執のことであり、流れる川に逆らって上流に向かって泳いでいくことである。

あるのは自己満足に過ぎず、俯瞰して見れば、そうと気がつかないだけで下流に向かって流されているのだ。

泳ぐのをやめ、流れにまかせてみるか。

「瀬々に流るる栃柄も、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」

剣道の古歌に言うが、なるほどと合点しつつ、この生き方は度胸がいるとも思うのだ。

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