歳時記

「火中の栗」を考えた

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 中学生以上の稽古は、基本的に彼らにまかせている。
 少なくとも基本稽古はそうだ。
 教えておく必要があれば私が指導することもあるが、指導員か黒帯の年長者が仕切る。
 昨夜は整列して挨拶をすませてから、
「立って!」
 と私が言うと、
「えっ、館長がやるの?」
 さっそく中・高校の女子たちからブーイングである。
 私の指導は熱心で口うるさいからである。
 期待に応えて口うるさく指導する。
 腕が痛いとかブツクサ言いながら、それでも頑張って稽古していた。
 やりたくない稽古を、どう頑張らせるか。
 年来の懸案であり、昨夜も帰宅して風呂に入ってあれこれ考えをめぐらせる。
 これは稽古に限らず、人間関係術のキモでもあるからだ。
 ふと「火中の栗を拾う」と言う言葉がよぎる。
 なぜ人は、ヤケド覚悟で火中に手を投じるのか。
 火中に栗があると知っているからだ。
 あると思うからだ。
 そうでなければ、手を入れるバカはいない。
 言い換えれば、火中には栗があると「いかに思わせるか」、ここがポイントということになる。
「人たらし」とは、栗を用いた手品師のことではないか。
 これが風呂で得た結論である。

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