歳時記

早朝ウォーキングで考える

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 早朝ウォーキングを続けている。
 5時に起き、お勤めをしてから出かけるせいか、気分的に仏教テイストを引きずっていて、周囲の風景を楽しみながらも、いろんな思いがよぎる。
 群生して咲き誇るツツジはきれいだ。
 だが、田圃の片隅に一輪、ひっそりと咲く小さな名もない花も、凛として美しい。
 無縁社会、孤独死ということが不幸の代名詞のように言われているが、そうではあるまい。
 群生するツツジより、私は一輪の花がいい。
 土手の草も花も朝露に濡れ、陽光にキラキラ輝いていて、まるで生命の息吹のようだ。
 それを見ながら歩いていると、「仏性」ということが脳裏を過ぎる。
 朝露を仏性に見立てれば、山川草木に仏性が宿るということが腑に落ちてわかるのだ。
 愚妻が、藤の花を見て「きれいね」と言う。
「いや、こっちの花のほうがいい」
 と私が田圃のあぜ道を指さすと、
「それ、草じゃないの」
 と言い返す。
「草」かそうでないかは人間が勝手に決めたもので、「草」とってはいい迷惑だろう。
 農道をクルマが走って来る。
「散歩の邪魔をしくさって、ふざけた野郎だ」
 私が毒づくと、
「あの人も用事があるのよ」
 と愚妻。
 なるほど、「ふざけた野郎」と毒づくのは、私の都合ということか。
 すれ違う〝散歩人〟に、
「お早うございます」
 と挨拶して無視されると、これも腹が立つ。
 まったくもって身勝手なもので、「ギブ・アンド・テイク」の価値観で生きている自分に気づかされる。
 早朝ウォーキングはいいものだ。

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