歳時記

世も末の時代を「末法」と言う

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「ホンマにもう、政治家は何をやっとるんかのう」
 先夜のこと。
 テレビで連日の国会中継を見ていて、88歳の映芳爺さんが怒っていた。
「国民が大変なときに、小沢がどうした、あれがどうした、これがどうした言うて、身勝手なことばっかりやっちょる」
 88歳を怒らせるくらいだから、与党も野党も、どうしょうもないということか。
 愚妻も、
「エジプトのように、日本でデモが起きなのかしらねぇ」
 と、物騒なことをさらりと言ってのける。
 まさに時代は「末法(まっぽう)」である。
 仏教では、釈迦の立教以来千年(五百年とする説もある)の時代を「正法(しょうぼう)」、次の千年を「像法(ぞうぼう)」、その後一万年を「末法」とし、「末法」の時代になると、釈迦の教えが及ばなくなるとする。
 要するに「末法」とは、
「世も末(すえ)」
 と言うことで、日本では平安中期から末法の時代に入ったとされる。
 そこで、末法の時代になると、人間と時代はどうなるか、
 少し長くなるが、拙著『親鸞の言葉』を以下に転載させていだく。
            *
 僧侶が京都祇園のクラブで泥酔しても、
「坊(ぼん)さんも人の子やさかい、飲めば酔いまんがな」
 と大目に見てもらえる。
 教師が性的ハレンチ罪を犯せば、非難囂々(ごうごう)で法的処罰を受けはするものの、
「まっ、教師も人の子ってことさ」
 と世間は妙な納得をする。
 選良であるはずの政治家の不正行為に対しても、
「政治家も人の子だ。そのくらいのことはやるだろう」
 と、驚く人もいない。
 社会的な立場にありながら、「人の子」というひと言で世間は納得してしまう。
 これが現代社会ではないだろうか。
 七百五十年前の昔、親鸞聖人はこんな和讃を詠(よ)んだ、
  五濁(ごじよく)邪悪(じやあく)のしるしには
  僧(そう)ぞ法師(ほうし)といふ御名(みな)を
  奴婢(ぬひ)僕使(ぼくし)になづけてぞ
  いやしきものとさだめたる
《五濁》とは、末世(まつせ)において現れる避けがたい五種の汚れのことで、飢饉(ききん)・戦争といった社会悪の増大や、思想の乱れ、煩悩が盛んになることなどを言う。
《奴婢僕使》は下男下女など身分の低い者のことで、
「時代が邪悪な末世に入った証拠として、僧侶や法師という貴い名が下男下女の呼び名として用いられている」
 と親鸞は歎(なげ)くのだ。
 たとえば、小僧・若僧・洟垂(はなた)れ小僧など卑(いや)しめる言葉に「僧」の字が用いられ、また、もともとは「住職」の意味であった「坊主」という呼び名も、クソ坊主・生臭さ坊主・乞食坊主など、僧侶をバカにする言葉になっている。
 親鸞は、《五濁》の象徴として僧侶を引き合いに出すことによって、
「坊さんも人の子」
 と蔑(さげす)まれる堕落ぶりを歎いているのではないだろうか。
 これを現代社会で考えるなら、教師、政治家、警察官、弁護士、親など社会的立場にある人間は、「人の子」という逃げ口上は赦(ゆる)されないということになる。
 社会も赦してはならない。
 ところが現状はどうだろう。
「わしも人の子や」
 と僧侶が公言し、
「まっ、坊さんも人の子やさかい」
 と世間も赦す。
「教師も労働者であり、人の子に変わりはない」
 と教師が公言し、世間もまた、
「先生も人の子さ」
 と受け入れる。
 そんな社会が健全であるわけがない。
 社会的立場にある人は粛然と襟(えり)を正し、世間もまた襟を正すことを強く求めるべきだ。ケジメのない〝なあなあ〟の社会は、《五濁》のごとく濁った社会ではないかと、親鸞聖人の和讃に考えるのである。
(以上)
            *
 映芳爺さんはもちろん、愚妻も私の著書など読んだことはない。
 だから、上記の「五濁悪世」について話して聞かせ、
「だから民主党の議員は命を賭けて政治を担(にな)わなければならない。失政をおかせば、国民は堂々と〝腹を切れ〟と求めるべきでなのである」
 と説いた。
 二人とも「五濁悪世」の解説にはアクビを噛み殺していたが、
「政治家は腹を切れ」
 という一言だけは、
「ほうじゃ!」
「そうよ!」
 キッパリと賛意を示したのであった。
 

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