歳時記

大人よ、理不尽であれ

投稿日:

「親は子の〝友達〟ではない」。
 あえて言えば、これが私の教育方針だった。
 だから理不尽なことも言えば、身勝手なこともした。
「メシを食わせてもらっていて文句は許さない。一人前になってから言え」
 それで通してきた。
 いま、空手の指導がそうだ。
 たとえば冬場。
 道場は暖房をしているが、学校の体育館は寒いので、私は手袋をし、ときに毛糸の帽子をかぶったりする。
 小学生たちが、
「館長、ズルい!」
 と抗議するが、聞く耳はもたない。
「バカ者! 館長とおまえたちは違う。これでいいのだ」
 理不尽さを承知で一喝する。
 私は子供たちの〝友達〟ではないことを、あえて理不尽な言動で知らしめる。
 すると、「館長、ズルい」という〝抗議〟はいっさいなくなっていくのである。
 いつだったか、高校生の7割が「大人に対して理不尽さを感じている」という意識調査があった。
 高校生たち自身によるアンケート調査だが、理不尽と感じる理由として、
「言行が一致しない」
「頭ごなしにしかりつける」
 などがあげられていた。
 このアンケート調査を私は見て、
「いや、申し訳ない。すまん、すまん」
 と思ったわけではない。
 高校生たちが、
「大人と対等である」
 という意識を持っているとことに、改めて気がついたのである。
 どおりで親や教師の言うことを聞かないはすだ。
「親は養う人で、自分は養われる人」
「教師は勉強を教える人で、自分は教わる人」
 という役割の違いはあっても、「人間」として「対等」だという意識を持っているのである。
 むろん人間は長幼に関係なく、また立場を超えて「対等」であるべきだが、それは「人格」「命の尊厳」において上下はないという意味で、社会生活や家庭生活において対等であるという意味ではない。
 二十歳未満は未成年であり、少年法で保護されているということは、子供と大人は対等でないと社会が認めていることなのである。
 極論を承知で言えば、大人は理不尽でいいのだ。
 むしろ、大人の言動に対して理不尽と感じる子供の「精神の在り方」が問題だと思う。
 人間が、相手に対して理不尽さを感じるのは、
「相手と自分は対等である」
 という意識を潜在的に持っているからだ。
 意識において対等な人間関係にあれば、親や教師が子供を教育することなど、できるわけがあるまい。
 学校が荒れるのは必然なのである。

-歳時記

Copyright© 日日是耕日 , 2024 All Rights Reserved.