人生は日々、「迷い」である。
何に迷うかというと、「選択」である。
右に行くか左に行くか、イエスかノーか、やるべきか、やらざるべきか。
レストランでメニューを選ぶなら経験則で簡単だが、人生における選択となると未経験のことが多く、迷いに迷ってしまう。
だが、この迷いの根源は「正解」を求めることにある。
人生の幸不幸は「あざなえる縄のごとし」で、幸せも不幸も半分半分であるにもかかわらず、
「どっちを選択したほうが幸せになるか」
という考え方をする。
正解など無いにもかかわらず、正解を求めるのだから、迷い、悩むのは当然だろう。
しかし、こんな言い方をすれば身もフタもないが、どっちを選らんだところで、結局は後悔するのだ。
選択の結果が不幸であれば当然後悔するだろうし、ハッピーであっても、それを素直に喜ばず、
(あっちを選んでおけば、もっと幸せになれたのではないか?)
という思いが頭をもたげてくるというわけだ。
選択とは、「何かを得るかわりに、何かを捨てること」なのだ。
ここに気づかず、すべてを得ようと考えるから迷い、悩み、その結果、どっちを選択しても不満足な思いにとらわれてしまう。
選択をハッピーな結果にするには、
「得て、そして捨てる」
という決然とした覚悟を持つこと以外にないのだ。
《選択とはすなわち、これ取捨の義なり》
とは、法然上人が著した『選択本願念仏集』の冒頭に出てくる言葉だ。
「一つのものを選び取ることは、ほかのものを捨てることである」
という意味で、まさに「選択」という人生の要諦を喝破した至言ではないか。
人生の幸不幸は「選択」で決まるのではない。
「選んだ結果に対して、どう向き合うか」
という覚悟で決まるのだ。
「選択」と「迷い」
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