歳時記

朝の湯船で、思わず唸る

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 今朝5時30分。
 起床して、いつものように朝風呂に浸かっていて、唐突に「知識」という言葉が浮かんできた。
 世のなか、博学の人がいるが、
(博学であることに、どれほどの意味があるのか?)
 という懐疑である。
 政治、経済から社会、文学、科学、雑事まで、立て板に水で博識を披露するコメンテーターがいて感心するが、よくよく考えてみたら、知識のひけらかしにすぎないではないか。
 博識は、そこに立脚して「自分の意見」や「人生観」を語って意味があり、知識のひけらかしは、百科事典を広げているようなものである。
 反対に、たとえばこの道一筋の職人さんは、博識ではないが、仕事を通じて得た経験をもとに、人生をも語る。
 ある植木職人さんは、
「曲がった木だって、使いようで活きてくるんだ」
 と言った。
 本人は「人生論」を語っているつもりはないにしても、これは人生に一脈通じることである。
 博識をひけらかす〝百科事典人間〟の言葉には、この含蓄がない。
 博識人間の知識は、いわばボデイービルの筋肉のようなもので、筋肉モリモリであっても、その筋肉の使い道がないのだ。
 反対に、職人さんなどこの道一筋の人間は、その〝競技〟を通じて鍛え上げたアスリートの筋肉ということになろうか。
(さて、私はどっちだろうか?)
 湯船で考え、思わず唸った。
 ひょっとして、私はボディビルダーでもアスリートでもない、ただの〝観客〟ではないのか?
 

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