東国原知事に入閣要請がなかった。
知事として一期を務めずして国政に転身を図ろうなど、私としては釈然としないものを感じる。
宮崎をダシにして、結局、自分を売り出していただけではないのか、と思ってしまうのだ。
地方分権だ何だと〝錦の御旗〟を振りかざしても、それは方便にしか見えないのである。
だが、それはひとまず措(お)くとして、東国原知事を見ていると、私は「人生はリセットできる」ということを考えないわけにはいかない。
周知のように、「そのまんま東」と名乗っていた1998年10月、彼は16歳だった少女に対する「淫行事件」を起こしている。法的に罪を免れたものの、社会の激しい批判を浴びた。
人生の大きな躓(つまず)きであるにもかかわらず、その後、彼は宮崎県知事となり、自民党の出馬要請に「総裁候補でなければイヤだ」と公言するまでになったのだ。
「人生はリセットできる」
という、まさに見本なのである。
だから私は保護司として、観察対象の青少年に言うのだ。
「東国原知事を見よ。かつて淫行事件を起こしながら……」「キミたちも、人生をリセットできるのだ」
皮肉やイヤミでなく、一度や二度のつまづきで人生を悲観することはないのだ。
人生で大事なことは、「つまずかないこと」ではなく、
「つまずいたあと、どう立ち上がるか」
ということなのである。
ただし、リセットできるからといって、「ノド元すぎれば熱さを忘れる」で、欲のかき過ぎは禁物。
県知事になれたのは、「できすぎのリセット」だと私は思うのだが、そのことに満足も感謝もせず、ステップにして大臣だ総裁だと公言かるのは、ちと欲張りが過ぎてはいないだろうか。
そのせいか、「東国原離れ」がジワリと起こりつつあるように思う。
今週の週刊文春が「東国原知事の邪悪な野望」という特集記事を組んでいる。
「人生のリセット」は、プラス方向とは限らず、〝元の木阿弥〟もまたリセットなのだ。
東国原知事は、果たしてそのことに思い至っているのだろうか。
東国原知事と「人生のリセット」
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