歳時記

運不運は我が掌中にあり

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 驚いて、唸った。
22歳の会社員が、新大阪駅に入線してきた新幹線にホームから飛び込み自殺を図ったものの、先端部分に跳ね上げられて車両の屋根に〝着地〟。命に別状はないと、今日のニュースで報じている。
 これは《幸運》であるのか、《不運》であるのか、私は唸ったのである。
 死のうと思ったのに死ねなかった、ということにおいては《不運》だろうし、一時の気の迷いから自殺を図ったということになれば、たぶん、これは《幸運》ということになるのだろう。
 あるいは、本人の意志はどうあれ、必ず死ぬだろうという局面において命が助かったということは、絶対値において《幸運》と言っていいだろう。
 だが、
「ラッキー!」
 と感嘆される一方で、
「でも、オレは死にたかった」
 と当人が悲しんでいるとしたら、《幸運》の当事者はいないということになる。
 すなわち、概念的な《運不運》と、当事者にとってのそれとは、必ずしも同じではないということになる。
 みんなが口をそろえて、
「おまえ、運がいいな」
 と言ってくれても、本人がそう思っていなければ、それは幸運でも何でもないし、逆もまた同様なのである。
 ということは、
「幸運も不運も、すべて我が掌中にあり」
 ということになる。
 だから、幸運な人生を歩むことなど、実はたやすいことであるのに、我が身の不運を嘆く人は多い。
 それが私には不思議でならないのである。

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