歳時記

ことわざに潜む「真意」

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 雑誌を読んでいたら、脳学者の池田裕二氏が、
《「楽しいから笑う」のではなく「笑うから楽しい」》
 といったことを書いておられた。
 脳と身体の関係から、そうなのだという。
 これは私の持論でもあり、ことあるごとにそう書いてきたのだが、私の場合は単なる経験則であって、科学的根拠なし。それだけに、池田氏の一文には意を強くしたという次第。
 こうしてみると、
《笑う門には福来たる》
 という諺(ことわざ)は、まさに至言ではないか。
「福が来たから笑う」のではない。
「笑うから福が来る」というわけである。
 ことほど左様に、私たちが普段よく口にする諺も、よくよく考えてみると、その奥に深い意味や真意が潜んでいるように思う。
 たとえば、
《馬を水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない》
 という諺がある。
 私も空手の稽古で、これをよく引き合いに出して、
「教えることはできても、稽古するのはキミたちだ」
 と〝説教〟する。
 ところが、説教しても稽古しない。
 馬に水を飲ませることはできないのだ。
 で、ふと思った。
(私の解釈は間違いではないか?)
 すなわち、
「馬を水辺に連れて行って飲ませよう」
 とするのではなく、
「馬が飲みたくなってから水辺に連れて行く」
 というのが、この諺の〝真意〟ではないか考えたのである。
 馬のノドが乾いていないのであれば、走らせればいい。
 メシを食べさせたければ、腹をすかせることだ。
 稽古をさせたければ、強くなりたいという欲求を喚起することだ。
 仕事を一所懸命やらせたければ、目的意識を植えつけることだ。
 しかるに私たちは、馬を水辺に引っ張っていって、
「さあ、飲め」
 と強制する。
 飲もうとしない馬を叱り、
《馬を水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない》
 と、諺を引いて嘆く。
 これが「自分の論理」であり、人は動かない。
 すなわち、
《人を動かすには、「相手の論理」で組み立てることこそ肝要である》
 というのが、この諺の真意であろうと、私は考えるのである。
 こう考えていくと、諺とは何とも奥が深いものではないか。

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