「あなた、痛くないの?」
「ン?」
今朝、愚妻に問われて、脇腹の痛みがなくなっていることに気がついた。
昨年暮れのことだ。
自宅の風呂で、浴槽に片足をいれたまま洗い場に身を乗り出し、頭に残ったムースをシャワーで洗い流していた。
頭とヒゲは、湯船につかったまま剃るのが私の毎朝の楽しみなのだが、付着したムースはシャワーで洗い流さなければならない。
で、この日。
横着して、浴槽に片足をいれたまま洗い場に身を乗り出し、シャワーを使っていたところ、右脇腹の下方部分に、キリで刺すような痛みが走ったのである。
(あッ、ヤバ!)
と思うまもなく、激痛で動けなくなった。
数年前、市の体育指導委員をしていた私は、軽スポーツの集いでソフトバレーをやり、果敢な回転レシーブで右脇腹のスジを痛めたのだ。それ以来、何かの拍子に、この部位がキリキリキリと痛むようになったのである。
風呂から四つんばいで出た私は、ソロリ、ソロリと近くの整体・鍼灸治療院へ出かけた。20年以上も我が家に来てくれている友人の整体師がいるのだが、暮れも押し詰まって来てもらうわけにはいかないと思ったのである。
私がソロリ、ソロリと訪ねた治療院は中年女性の先生で、マッサージから鍼灸と、時間をかけ、実に丁寧に治療してくれた。
しかし、痛みは取れない。
翌日も行く。
痛みは取れない。
私は、あせった。
一所懸命に治療してくださっているのに、痛みが取れないのでは申し訳ないではないか。
(マズイなァ。治らないかなァ)
次回の治療で、先生を落胆させるのかと思うと、気が重くなるのである。
で、今日が三回目の治療だが、
「あなた、痛くないの?」
と愚妻に問われるまで、脇腹の痛みのことをすっかり忘れていた。
痛みが無くなっていたからである。
「痛くねぇな」
「何よ、大騒ぎしていて、ケロッと忘れるんだから」
愚妻があきれているので、私はいい機会だと思い、次のように諭した。
「無心という言葉の意味を知っているか。これは心を無にすることではなく、欲望を突き抜けた先に訪れるものなのだ。たとえば野球のバッターが無心の境地に至るのは、ヒットを打ちたい、打ちたいと渇望し、執着し、その渇望と執着を突き抜けた先に、ひょいとエアポケットのようにして無心の境地が訪れる」
「だからどうしたのよ。私は忙しいんだから」
愚妻がイライラしている。
「まだわからぬか。脇腹の痛みよ去れ、去れ、去れと渇望し、執着し、その渇望と執着を突き抜けて無心の境地に至ったればこそ、痛みが取れたことも気がつかず……」
「バカみたい。ヘ理屈はよそへで言ってよ」
バチ当たりが、洗濯物を干しに二階へトントコ上がっていったのである。
愚妻はバチ当たりなことを言ったが、無心に至る境地は、渇望と執着を突き抜けた先にあると、私は信じている。
ついでながら、浄土真宗僧侶の末席につらなる一人として「信心」について講釈をたれるなら、阿弥陀如来の本願を信じ、信じ、信じ切って、信じることさえ忘れた先に、ふと心の平安が訪れるのである。
すなわち、これを逆説的に言えば、私たちはもっともっと煩悩を大事にし、それにトコトン執着することこそ、人生渡世の要諦ということになるのだ。
脇腹の激痛に「無心」を説く
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