歳時記

人生に「正解」なし

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 今日は、軽井沢で打ち合わせがあり、未明に自宅を出発した。
 高速道路を使うときはいつもそうだが、ノートパソコンを持参し、予定よりうんと早めに最寄りのSAまで行って、クルマのなかで原稿を書くことにしている。
 目覚まし時計も用意しているので、執筆の途中で眠くなれば、安心して仮眠を取れる。コーヒーの自動販売機もあるし、SAは広々として景色もよく、仕事がはかどるのだ。
 それに、約束の時間に遅れる心配もなく、一石二鳥なのである。
 今日は、行きはスイスイ、帰りは夕方とあって渋滞していたが、私は高速道路の渋滞は嫌いではない。
 いろんな考え事ができるからだ。
 ことに、原稿のアイデアが浮かんだときなどハミング気分で、渋滞に感謝である。
 ついでに言えば、道路スイスイも嫌いではない。
 スッ飛ばせば気分爽快になるからだ。
 渋滞してよし、スッ飛ばしてよし。
 ものごとをポジティブに考えると言えば聞こえがいいが、要するに、都合よく考えるのが、私の持ち味ということなのである。
 で、帰途。
 千葉に向けて高速道路の分岐点が2カ所ほどあるのだが、どの分岐点を行けば渋滞にぶつからないですむか。
 A地点。
 迷っているうちに通り過ぎてしまい、B地点から分岐して千葉に向かった。
 思ったより流れていたが、走っているうちに、
(A地点のほうが距離的には近いんじゃないか?)
 そんな思いがよぎったが、すぐに考え直した。
 もしA地点から分岐していて渋滞していれば、
(やっぱB地点にすればよかったんだ)
 と後悔するに違いないからである。
 よしんばA地点から分岐してスイスイ流れていても、
(こっちがスイスイだったら、B地点はビュンビュンじゃないか?)
 と、これまた後悔の気持ちが起こってくるだろう。
 人間、身勝手なもので、選択したあとで必ず後悔の気持ちが起こるのだ。
 右を選択すれば、
(ひょっとして、左のほうがよかったかも)
 左を選択すれば、
(ひょっとして、右のほうがよかったかも)
 選択が悪結果であれば当然のことで、好結果であっても、
(もし、あっちを選んでいれば、あるいはもっとよかったかも)
 という思いがしてくるのである。
 なぜなら、右と左とは同時に行くことができず、右を選択すれば、「左を選択した結果」は永遠の謎であるからだ。
 と言うことは、人生の岐路において、どっちを選択しようとも、あとで必ず後悔の念が起きるということになる。
 つまり、「人生に正解なし」。
 正解がないのに正解を求めるのは、愚かなことだ。
 もっと言えば、人生に正解を求めようとする、その考え方が間違っているのである。
 自分の人生は、自分が正解を決めるのだ。
 だから、すべての人間が百点満点になるはずなのに、そうはならないのは、「選択しなかった片方」に未練を残しているからではないか。
 そんなことを考えながら、一路、湾岸道路を自宅に向かったのである。
 

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