ヤクザ社会に、
「なぜ」
は禁句だ。
「ホンマでっか」
という懐疑も同様だ。
「組員になるのに、なぜ親分と盃(さかずき)をかわさなきゃならないんですか?」
「任侠道って、ホンマにあるんでっか?」
こんなことを質問すれば、速攻、灰皿が飛んでくるだろう。
ヤクザ社会に限らず、武道や舞踊など伝統社会は、その世界で培われてきた既成の価値観やしきたりに対して、
「なぜ」
と問われるの好まない。
特に、内部の若手が抱く懐疑心には神経を尖らせる。
なぜなら、価値観やしきたりは、時代の変遷という鏡に写して見ると、不合理なことがたくさんあり、そこを問われると、説明に窮するからである。
「親分が白や言うても、黒は黒やんか」
「いまは、親分が子分の使用者責任を問われる時代や。つまり組とは雇用関係にあるわけやから、組合つくろか」
いくら子分の言っていることが正論であっても、これを容認したのではヤクザ社会は成り立たない。
ヤクザ社会はヤクザ社会の規範があり、それに対して、
「なぜ」
という問いかけを許すことは、組織そのものの崩壊を意味する。
だから、
「アホ! 黙っとれ!」
となるわけである。
逆を言えば、既成の価値観をぶっ壊し、新たな価値観や発見を見い出すには、
「なぜ」
という疑問がポイトンになってくる。
すなわち、聖徳太子の言葉にいわく、
《疑いの心既に生ぜば、解を得るの議有るべし》
なぜ、と疑問が浮かんだときこそ、それを解明するチャンスだ――と聖徳太子は言うのだ。
習知のようにニュートンは、木から地面に落ちるリンゴを見て、
「なぜだ?」
という疑問から引力を発見するわけだが、実は、この誰もが当たり前と思っているところに、重要な発見が潜んでいる。
たとえば、商社に勤めるSさんは、こんな〝発見〟をした。
Sさんの上司であるW部長は、「瞬間湯沸かし器」とアダ名される短気者だ。 仕事もできるが、部下にも厳しい。
ちょっとしたミスでも、カミナリである。
ところが部下たちは、怒鳴られても、
「部長は短気だから」
ということですませてしまう。
ところがSさんは、違った。
(どうして、あんなに短気なんだろう)
素朴な疑問を抱いたのである。
部長の様子や表情を子細に観察した結果、部長が瞬間的に怒るときのパターンを発見した。
たとえば、
「企画書、どうした」
と部下に問いかけて、
「いまやっています」
「もう少しです」
「今日の夕方までには」
こんな返事が返ってきたときに、カミナリである。
命じたことに対して、
「まだ」
という返事が嫌いなのだ。
そこでSさんは、部長から命じられた仕事は、期日前に終わらせるように心がけた結果、Sさんは部長の評価を得て、同期のトップを切って係長になったというわけである。
これは一例だが、「なぜ」と自問し、その答えがみつかったときに人間は大きく飛躍するのだ。
「なぜ」という疑問が、自己を飛躍させる
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