朝青龍が、モンゴルに帰ったそうだ。
「やれやれ」
と安堵の声が聞こえてきそうである。
日本にいると、いつまでも問題がくすぶり続け、相撲協会も高砂親方も、そのうちには朝青龍を横綱に推挙した横綱審議委員も批判の矢面にさらされる。
朝青龍が「治療」ということでモンゴルへ帰ってしまえば、海の向こうの外国ゆえ、騒動は次第に沈静していくということなのだろう。それでなくても、私たち日本人は移り気なのだ。
ただ、もし朝青龍が日本人だったらどうか、という思いはある。
○○県○○市○○郡○○村の出身であれば、どうだったろう。ケガを理由に巡業を放り出し、ニコニコ笑顔で自治体主催のサッカーに興じていたとしたら、サッカーをさせた自治体は大バッシング。首長は〝切腹〟ものであろうし、当の力士も、親方も土下座である。
「世間に顔向けできない」――良くも悪くも、これが「恥を知る」という日本人のメンタリティーではないだろうか。
世論の批判も、こんなものではすまなかったろう。
「解離性障害だァ? トボケたこと言ってんじゃねぇ!」
一刀両断である。
ところが朝青龍は、顔つきこそ日本人に似てるが、外国人である。
マゲはつけてもドルゴルスレン・ダグワドルジなのだ。
だから世論もメディアも、そして協会も親方も、
「外国人だから、しゃないかなァ」
と、一歩距離を置いているように思える。
ならば、「国技」とは何ぞや。横綱とは何ぞや――と、私は首を傾げるのである。
角界を批判すればきりがないのだが、相撲協会が忘れてはいけないのは、フンドシにチョンマゲという異様な格好が違和感なく社会に受け入れられているのは、「国技」であるからだ。
国技でなくなったら、肉塊にフンドシにチョンマゲなんて、悪い冗談だろう。あの格好では、格闘技として成立せず、〝お笑いショー〟である。そう言えば、地方巡業のショッキリは大ウケだった。
と、まァ、そんなことを考えながら、「もし、朝青龍が日本人なら」という思いがよぎるのである。
もし、朝青龍が「日本人」であったなら
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